『上毛かるた』から群馬県の歴史や文化などを読んでいたら、テレビでのニュースが、ロシアのウクライナ侵攻で大変な戦争状況になり、国連でさえ止めることが出来ない悲惨な姿を見た。核を持ち、軍事力が強ければ、何をしても良いような世界になってしまったのか。そんな中「力あわせる二百万」という、上毛かるたの一つを思い出した。戦後の復興に『上毛かるた』を通して、群馬県の子供達は郷土に誇りを持って、新たな群馬を築いてきた。
そして先ず思いついたのが、前橋市の総社神社だ。戦争中の高崎市・前橋市の戦火にも、総社神社は焼け野原の中、そのままの姿で守られて残った。「上野総社神社」は上野国の「総社明神」と号し、まさに我が群馬を代表する神社であり、群馬の守り神であり、武運の神である。ウクライナの人々、ロシアの人達に早く平和で安穏な生活が訪れるよう、参拝に出掛けた。
『上毛かるた』について
『上毛かるた』は浦野匡彦氏により発案され、戦後の昭和22年12月にできました。
それは戦後の荒廃した姿を目にして、新たな日本の建国に、日本中の国民が互いに助け合い、努力しなければならないという決意にもなった。群馬県においては、多くの犠牲者への支援を行う「恩賜財団同胞援護会」群馬県支部責任者であった浦野氏が、子供達に群馬県の歴史や文化を教え、自信と希望を抱けるようにと昭和22年1月に『上毛かるた』を発案しました。
上毛新聞社を中心に、県下各地からの応募を得て、12月には『上毛かるた』が出来た。小学校から「かるた大会」が各地で行われるようになった。やがて県下の大会は盛況になり、群馬県出身者は読み札の全てを暗唱できるまでになった。『上毛かるた』を通して歴史や文化、多くの偉人を学び、今の群馬県を築き上げる力となりました。。
群馬県出身の総理大臣は4人、福田赳夫(67代、1976年12月24日 – 1978年12月7日)・中曽根康弘(72代、1983年12月27日 – 1986年7月22日)・小渕恵三(84代、1998年7月30日 – 2000年4月5日)・福田康夫(91代、2007年9月26日 – 2008年9月24日)、もっとも多くの総理を輩出してる。
力あわせる二百万
群馬県人、全員で力を合わせて、戦後の復興に頑張ろうという決意の読み札になってる。この読み札だけは、人口の動向によって書き換えられる。10万人ごとに書き換えが行われてるようです。この読み札でだいたいの年代が分かります。

昭和22年(1947年)に出来た時には、群馬県の人口は160万人で、力あわせる160万、だった。昭和48年(1973年)に170万、昭和52年(1977年)に180万、昭和60年(1985年)に190万、平成5年(1993年)に200万人に達しました。令和4年2月1日現在、総人口1,920,332人、男949,349人、女970,983人、総世帯数809,557世帯、わずかに200万人を下回ったようです。
群馬県の市町村名
市:前橋市|高崎市|桐生市|伊勢崎市|太田市|沼田市|館林市|渋川市|藤岡市|富岡市|安中市|みどり市
北群馬郡:榛東村|吉岡町
多野郡:上野村|神流町
甘楽郡:下仁田町|南牧村|甘楽町
吾妻郡:中之条町|東吾妻町|長野原町|嬬恋村|草津町|高山村
利根郡:片品村|川場村|昭和村|みなかみ町
佐波郡:玉村町
邑楽郡:板倉町|明和町|千代田町|大泉町|邑楽町
上野総社神社
〒371-0846 群馬県前橋市元総社町1-31-45

御祭神
磐筒男命(いわつつなのみこと)・磐筒女命(いわつつめのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)
総社神社の創建は第十代崇神天皇の御代四十八年、皇子豊城入彦命が東国平定の為、上野国にお下りになった際、御代の時代に国の平定に貢献された経津主命の武勇を敬慕され、武運長久を願い軍神として奉祀したのが始まりとされ、その後、親神である磐筒男命・磐筒女命も合祀された。
第四十五代聖武天皇の御代、大化の改新後、各国に政庁として国府が置かれ、歴代の国司は当社を篤く崇敬された。国司は上野国内の神社を参拝されたが、総社制度の施行により上野国十四郡に鎮座する五百四十九社を当社に勧請合祀し、社号を「総社明神」と称し、当社を参拝することで上野国内各社を参拝した事とし巡拝奉幣の労を省いた。
永禄九年北条・武田両軍の戦禍により、社殿を始め、摂社・末社・宝物等悉く灰燼に帰したが、辛うじて神名帳と御心鏡は難を免れた。その数年後元亀二年に北西約四百メートルの宮之辺から現在の地に再建した。
かつての宮之辺の跡には、宮鍋神社として、御祭神に経津主命・金山昆古神(かなやまびこのかみ)・金山昆賣神(かなやまびめのかみ)が祀られている。
コメントを残す