コロナワクチン集団接種予約

今日はいつもの通り整形外科医院で、腱板断裂の肩と膝に注射をしてきた。待合室で老婦人と受付での面白い会話を聞いた。コロナワクチン注射の個別接種についての予約だが、老婦人ではなく、その友人についての事だった。

高齢者にとっては切実な問題なのだろうが、傍目から見ると地方行政と一市民との関係や、信頼関係などについて面白い見方が出来る。ちょうど「市民自治の実践について、社会学からの知識の必要性についてと、実践のために身近な例からの考察」のレポート課題に合ってる。既に提出してしまったのだが、今回のテーマにドンピシャな事例なのに、残念。提出期限まで2日間も有るので、各県別接種状況や予約の方法についてとか、簡単な比較のための資料集めは難しくない。書き換えするには充分に時間が有ったのに。

話の内容は、老婦人とその友人夫婦のコロナワクチン接種の予約についてだ。婦人の場合は掛かり付け医なので問題はないが、老夫婦は決まった掛かり付け医が居ないらしい。桐生市の場合はあくまでも電話予約だけなので、つながらないのか聞こえないのか、相当に難儀をしてるらしい。役所に行っても掛かり付け医か電話予約でと言われるだけ。そこで婦人が自分の掛かり付け医で予約をと考えた様だ。

これは一見、市の予約法が冷たい様に感じる。電話のみの予約受付では、耳の悪い高齢者や障害者に優しくないし、明らかに差別にもつながる、と思える。他の市町村ではLINE予約や、HPからの予約も出来る様だが、便利な様でこれも電話のみと五十歩百歩と思える。LINEが出来なければ、ネットを使い慣れてなければ、逆に大きな差がついてしまう。テレビでは学生や家族が代わりに予約を取ってる映像が流れていたが、高齢者だけの場合は電話以上に難儀な事だ。太田市だか伊勢崎市の場合は、高齢者順に集団接種の申込ハガキを送り、申込にチェックを入れて返信すると、市の方で予約の日時を決めて電話で連絡をしてくるそうだ。これは凄く良い様に思えるが、申込の日時は行政側で決められてしまう。たぶん変更は出来ると思うが、申込者の意向は最初の段階で無視される。

要するに、コロナ禍は国難であり、市町村レベルの問題ではない。国政レベルの非常事態であり、早期にワクチン確保に動くべきであった。現状の混乱に対しては、地方の判断に任せるよりも、予約法や接種会場についても国レベルでの指導が必要ではなかったのかと思う。今に至って大規模接種会場とか、打ち手がではなく、首相自らテレビで今回の説明をし、接種法や予約に関しては、緊急事態下の協力を国民にお願いし、接種法を決める。掛かり付け医や近くのクリニック・診療所にもお願いをして、協力を仰ぐ。当然反対する団体も有るだろうが、国家を率いる首相が会見でお願いすれば、表だった反対をすれば逆に国民からの攻撃に遭うだろう。

国政における与野党の能力差と、地方行政の力量の差や考え方が見えて面白い。与党の政策に批判ばかりで対案も出せない野党に、現在の未曾有の国難に対応できるだろうか。感染症研究所を大幅に削減したり、医薬研究に関する予算の大幅な削減をしたのは今の野党ではないか。東日本大震災で、福島原発事故の対応も、今の野党が政権与党だった。あの時に現場の対応を優先しなかったのは、今のコロナと同じように軽く見ていたのではないか。事業仕分けと震災対応で、けっきょく何も出来ない事が分かった。現状の問題を解決するのに、野党に頼るよりも、国民や現場に直に訴えた方が良い様に思う。

そして強く感じたのは、生への執着のようなものだ。家から出られないような生活をしてる高齢者夫婦ならば、急いで接種の必要も無いだろう。この前に読んだ『徒然草』の中にあった。

人間ほど長命な生き物はいない。カゲロウは一日と命が保てず、夕方には死んでしまう。夏に生まれた蝉は、冬を待たずに死んでしまう。これに比べたら、一年を暮らすだけで長閑な思いがする。いくら長く生きても、充分だと思わなければ千年を生きても一日のようであろう。現実社会の中で老残を晒して何になろう。自らの老醜を恥じる事もなくなり、年甲斐もなく出しゃばり強引に人の中に交わり、命も消えゆく人生の日暮れ時なのにむやみに利欲を貪る心ばかりが強くなる。【第7段を相当に意訳、適当に訳】

自分自身に当てはめてみれば、先の無い欲する物も無い今の状況では、別にどうでも良い事だ。が、テレビで見るECMO装着や、肺炎での苦しむ姿を見ると、早い接種を望んでしまう。まあ、人間の欲望とはこんなものかもしれない。

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