年寄りになる怖さ

歳を取る事は面白いことであり、情けなく悲しいことでもある。昨日まで普通にできていた事が、ハッキリと出来なくなる瞬間を感じる。ある瞬間、ああ今考え方や行動が変わったと、老人になったと感じられ、歳を取ったことを、これほど自覚できるものかと面白い。つい最近までは年齢を重ねるという自覚など無かったのに、ある瞬間から醜く狡賢く存在価値も無いような人間になったことを、ハッキリと自覚できる。行動や思考が突然変わり、その瞬間が自覚できるのだから面白い。

去年、70歳になる数ヶ月前まで、現役として勤務していた。やりたいことが有るからと退社を決めたが、その時は頭もハッキリしてて、記憶力も決して落ちてはいなかった。行動力も有った。鏡に映る自分の顔が老いて醜くなっていることが、我慢できなかった。老いていく自分の顔が嫌で、思い切って行動に出た。頭がハッキリしてるうちに、学びたいことが有った。

とつぜん中国発生の武漢肺炎、武漢ウイルスの蔓延によりしばらく諦めた。その半年のあいだに、何もしない楽しさを知り、とつぜん頭の回転が悪くなるのを感じた。歩いていて何も無い平らな床につまずいて、転びそうになる。風呂場で何も無いはずなのに転んでしまう。滑ったわけでも無いのに。なによりも歩いて疲れる、動くのが面倒になる。同じ行動パターンを繰り返してしまう。

妻が健在の頃、義母の姉が一人暮らしの高齢者で、会うたびにそのずる賢さにイライラした。人を見ると買い物に付き合わそうとする。自動車も無く誰からも相手をされないので、要は気晴らしの買い物の手伝いだ。途中で焼き肉が食べたい、和食の店に行きたいなど誘い、食事が終われば当たり前のように勝手に外に出て支払いもしない。家の電球交換から水道修理まで頼みながら、部品代を払うこともなく、当たり前のように何でも頼ってくる。もっともそれは義母も同じで、不愉快で顔を見るのも嫌だった。家の中は散らかり、台所も不潔で物が腐り、臭っていても片付けようともしない。使わない部屋はゴミの山で、醜い狡賢い性格はそのまま家の中に表れていると思えた。

わずか1年のあいだに、あの頃の義母姉妹達の様になってしまった。掃除は二日に1回程度、2階の部屋は全く掃除などしなくなった。自分の生活は最後まで自分の責任で、と思っていたのに、けっきょくは子供からの仕送りを受けてる。たまに娘が来ては食事に誘われ、いつの間にか支払いが済んでる。そんなことを繰り返してると、それが当たり前のようになってしまう。実に情けないことだ。

頭の衰えも激しい。何もしないで、何も考えずに、ただテレビの前で居眠りをしながら一日を過ごすのが、もっとも楽になった。そして突然、言葉の単語がでなく出なくなる。ボーッと聞いてる単語の意味が、幾ら考えても思い出せなくなる。朝に何をすべきか決めても、一々行動を起こすまでに時間が掛かるようにもなった。紙に単語を書くと写真のように記憶できていたのに、記憶も出来なくなった。認知症の検査を受けたが、全く問題は無かった。たとえ認知症でなくても、今とつぜん記憶が出来なくなった、と自覚できる。

自分の変わっていく瞬間を感じることは面白い。こうして人は歳を取り、死んでいくのだろうと、妙な諦めもついてくる。そして何よりも寂しく思えるのが、生活していく人間として次第に身の回りのことが出来なくなっていくことだ。何よりも悲しく感じることは、自分自身の存在してる意義が感じられなくなったことだ。

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