生品神社(太田市)|太平記の里

NHK大河ドラマ「麒麟が来る」に合わせたのだろうか、NHKBSで「太平記」を毎週日曜日の朝に放映してる。

「麒麟が来る」は明智光秀を主役に、織田信長が室町幕府を倒し、本能寺までの物語なのだろう。ドラマの「太平記」は、足利尊氏を中心に北条氏鎌倉幕府を打倒し、京都に足利氏室町幕府を立てるまでの物語だ。

ここ生品神社は足利尊氏に呼応して、新田氏の新田義貞一門150名が挙兵したところだ。わずか150騎だが、後の2代将軍足利義詮(よしあきら)、尊氏の子千寿王(せんじゅおう)を奉じて鎌倉へ向けて挙兵し、越後の新田氏や甲斐源氏ほか諸国の東国武士団が集まり、1万を超える軍勢になった。鎌倉での戦いは一進一退であったが、新田義貞軍の稲村ヶ崎からの進軍に、追い詰められた北条氏一族は東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡した。

生品神社前の新田義貞の像は、稲村ヶ崎から海伝いに攻め入るのに、海水が引くように祈り太刀を海に投じたという故事に習ってる。

生品神社:群馬県太田市・新田荘遺跡保存

神社敷地内

平安時代の上野国神名帳に「新田郡従三位生階明神」とあり、主祭神は大穴牟遅神(大国主命)。伝説では、平将門を祀ったともある。

神社敷地内には、新田義貞旗挙げにちなんだ記念碑等々がある。畑の中の広い古木に囲まれた一角は、遠くからも分かる緑の塊のようだ。

 

広い敷地内、本殿までの道のりは、次第に清涼として気分になれる。

御朱印

生品神社御朱印

生品神社御朱印

敷地内の散策をしながら

足利尊氏と新田義貞は親戚同士です。元々は源義家の子、源義国が足利荘に入り藤原姓足利氏から源姓足利氏に変わります。源姓足利氏の祖は義国公の次男足利義康公が初代で、尊氏は足利氏8代目です。新田義貞は義国公の長男新田義重が新田氏の祖で、新田氏8代目に当たります。

鑁阿寺の御霊屋(赤御堂)には、義国公・義康公・義兼公の三代の墓が祀られています。太田市には義国神社があり、そちらの方が義国公の墓所なのかもしれません。我が家のご先祖様が若干の縁があったようで、祖父に連れられて鑁阿寺の三代の石碑墓のお参りに来てました。確か当時は直ぐ近くには入れたような気がします。元の場所から移転したらしく、60年も前の記憶では、普通に石の塔が三つ並んでただけだったような。

幼い頃に聞いた話では、東国下りを誘われたときに、古神道による占いをしたら京の都は戦場になり、家を栄えるには東国と出たとか。果たしてやがて占いの通りに、源平の戦いが起きます。ご先祖様は義兼公に従い、戦いに出ます。分家が新田氏に仕えていましたが、新田氏はこの戦いに参戦せず、我が親戚の多くは足利荘に戻ったと聞きました。この戦いの後、足利氏は北条氏鎌倉幕府内で力を付けますが、新田氏は不遇な立場になったようです。

この先は祖父の話で、調べたことも無いので史実とは違うかもしれません。

新田の庄は土地が広く平らであったが、水路に乏しく、雑木林ばかりで耕作地に出来る土地は少なかった。義国公と新田義重は土地を分けては開墾させて、やがて広い耕作地を得られた。分家しては土地を分けたので、皆は自分の土地を守るために、まさに一所懸命に働いた。それが結果的に本家筋の力を弱め、結束を悪くしてしまったそうだ。

義貞が鎌倉攻めに参戦したのも、家名の再興を密かに謀ったのかもしれない。実際にこの時に集まったのは、わずか150騎程度だった。この時に総大将として足利尊氏の子供を幼いながら立て、これに呼応して各地の源氏勢力の集合を見た。一気に1万を超える勢力が集まり、鎌倉を落とした。

新田義貞は少し可哀想に思えます。勝ち戦でありながら、その戦勝戦果は幼い千寿王になったようです。後醍醐天皇による建武の政権で、公家社会を重んじ武家を廃する動きから、足利尊氏は共に鎌倉幕府を倒した新田氏や楠木正成と袂を分かち、新政権の室町幕府を築くことになります。

義貞は足利軍との戦いで越前国で討ち死にします。建武5年(1338年)行年38歳。

新田義貞が討ち死にの時、四天王といわれた側近の武士が、義貞の守り本尊とした不動明王の像を預かります。その不動明王の像は、旧足利市小俣村の山奥、「滝の入」という所に祀られたそうです。その御堂も火災に遭いましたが、不動明王の像は災難を逃れ、新田氏ゆかり五つの青蓮寺の一つ、旧小俣村の青蓮寺住職の勧進で移設されたと聞いてます。不動明王の祀られてるところ探したけど、残念ながら未だに分からない。また探してみよう。

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