何もしない日常|高齢者の運動

最近は週に2回程度、あるいは1回しか散歩に出ない。そのせいか、少し歩くと息苦しくなる。歩く速度も遅くなってきた。

こういう状態を見て、年を取ったら散歩や早歩きのような運動は欠かせないといわれる。むかし老人を見ると、モタモタと歩く姿を嫌だと感じた。動きが遅くて、時には一緒の行動で邪魔にさえ感じた。家でジッとしてる姿を見ると、動かないから動けなくなると、うるさく注意もしていた。

自分が老人になると、足腰が弱ってきたことは自身で実感できる。歩かなければダメだという事も分かる。歩く速度も遅くなり、さぞや邪魔に思われてるだろう。散歩に出るとか、老人同士のグループで軽い運動をせよ、と言うのも分かる。

ところが、何もしない日常というものが、実に心地よいものになる。腹が減ったら食べて、疲れたら横になり、眠くなったら寝る。これは実に自然なことだ。若いときには自分の力に委せて行動し、有り余る力で何でも出来た。失敗も成功も、それはそれで良かった。今は昔ほどの行動力も失せて、無理に動きたくもない。何もしないで居ると、飽きてしまうだろうとも言われた。ところが、全く飽きることなどない。こういう自堕落というか、無気力なと言うか、怠惰な生活を一度味わってしまうと、これは何にも代えがたい平穏で穏やかな、心安い落ち着いた日常に感じる。

いま同居中の猫も同じく、人間年齢で76歳になって行動も鈍くなり、食べては寝るだけの生活になってきた。これも誠に自然な姿に思う。老いたらそれに似合った生活の仕方は、人も猫も動物全てに通じ道理ではないだろうか。

ところが実に面白い現象も起きる。ヨロヨロと歩いてる猫が、突然目を輝かせ、行動が俊敏になる。好きな食べ物を見つけたときの、あの強引さには力の衰えは感じない。獲物となる小動物を見つけたときも、行動こそ遅くなって狩りも出来ないが、本能の持つ輝きだけは失われていない。

人間も同じ様で、日常の食事では食欲もなくなり、1日2食でも充分に感じる。時には夕食は抜きにして晩酌だけで終わることも多い。それはまあ、晩酌時に様々な物をツマミとして食べてるので、いつまでも体重が落ちないのかもしれないが。男性としての本能も、猫と同じように失われてはいない。すでに繁殖能力は無くなっていても、機能としての部分が失われただけで、本能は全く消えていない。一人旅に出て宿での食事はこの上も無く美味しく感じるし、旅先での出会いは、もちろん女性とだが、心ワクワクさせる。

一人旅で、とても思い出深い経験をした。

英語が出来ないし習いたいとも思わなかったのに、何とか少しでも話せるようになりたいと思った。それは旅先で一人旅に来ていたカリフォルニア大学の女学生と、温泉や饅頭や日本食材について話したのが、大きなきっかけだ。ブロンドの美しい髪の毛と、聡明で明るい表情を持ち、ほとんど日本語が分からないのに、真剣に顔を覗き込む眼差しで話しかけてきた。こちらも英語などは全く出来ないのに、いわゆるドーパミンが爆発的に湧いて出たようで、むかし覚えた英単語を必死に思い出して話した。

あの時の急激に上がった心臓の脈拍は、早歩きをした時よりも強く打ってたが、少しも息苦しくは無かった。一緒に店を出て、誘われて短い距離だが一緒に歩いた。小柄だが大きなリュックを担ぎ、短パンからのぞく長く綺麗な足は、とてもしなやかというか軽やかだった。一緒に歩いても、その早さについて行けたし、ワクワクとした華やいだ気分になれた。分かれてから、英語を学びたいと強く思ったものだ。

大きなバックを持っての移動も、旅先の人との出会いでも、普段の散歩以上にキツい行為だが、その疲れは心地よいものだ。

全て自然で良い。全てを自然のままに過ごせば、それが一番素晴らしいことだと思う。食べたいときに食べ、寝たいときに寝て、気が向けば旅に出て、時には日がな一日中ただただボーッとして過ごす。これこそ最高の生き方だ。日本だからこそ、内乱も戦争も無い、平和な国に生まれたからこそ得られた、最高の幸せと感謝したい。

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