肩の痛み治療で病院に行った。そこで懐かしい人の姿を見つけ、悲しく寂しい思いをした。
時間の経過というものは、何という残酷なことなのだろうか。あれほど美しく、ハキハキとして、先輩達の憧れの的だった人が、約50年間という時間の流れが、何とも見る影も無いほど変えてしまった。
病院の会計待ちの時に、前を小さな体を前に折り、ヨチヨチと手押し車にすがるように歩いてた。娘なのか嫁なのか、なんとなく邪険に扱われ命令されてる姿は、驚きを通り越して、悲しかった。あれほど美しい女子高生だったのに。
家に戻り、余りの悲しさに散歩した。一人で家に居られるような気分では無かった。

1年先輩の人だった。小柄でハキハキした話し方で、あの頃としては珍しい体にピッタリしてる、黒いレオタードの似合う人だった。男子先輩達の間でも、憧れの的だったようだ。特に部活の場所が隣になり、ダンスの音楽が流れると先輩達は気になるようだった。
何がきっかけだったのか、全く思い出せないのだが、彼女が卒業するまでの2年間、まるで姉と弟のように仲が良かった。仲が良いといっても付き合うわけでも無いし、思い出そうとしても名前も出てこない。どこに住んでいたのかも知らない。ただ部活の間だけだった。
手招きで呼ばれ、行くとかなり酸っぱいレモンの水を飲まされた。練習に飽きたり、キツい時には自ら彼女の元に行って飲んだ。女性だけの部活に先輩達男子は近づけないようで、悔しくても先輩も来られない逃げ場所でもあった。それがおもしろかったし、たぶん彼女も同じだったと思う。先輩の水筒を、直にそのまま口を付けて飲むのを部活の先輩達が見てて、からかわれたりイジメを受けたりした。男の部活の汗臭い酸っぱい臭いよりも、甘いような運動着の匂いの方が好きだった。
ごく普通に女の子の間に入り話すので、皆から変に思われていたかもしれない。もっとも、当時はそのような意識も無かった。
私は死産で生まれ、元軍医だった父親の処置で息を吹き返したそうだ。産婆が帰るときに、無理に生き返らせても長生きはしないだろうし、本人が苦しむだけだと言ったそうだ。その予言は少し当たっていたようで、少し歩くと動けなくなり、心臓も弱かった。そのために、二人の親戚の娘を子守にした。私が小学校の中学年まで一緒に暮らし、私の面倒を見ながら高校に通っていた。母と親戚の娘と、常に女性に囲まれて育ち、男の子の遊びはほとんどしなかった。女性的だと言われるのはそのせいかもしれない。人との争いを嫌い、喧嘩の経験も無く、おとなしくて自己主張が弱いのは、女性の中だけで育ったからだろう。
男臭い部活動よりも、女性ばかりの中が、居心地が良かった。

今これを書きながら、フッと気づいた。なぜリトグリが好きなのか。
幼い頃にずっと面倒を見てくれたネエも、高校の先輩も、親戚のネエも、みな髪を後ろにまとめたポニーテールだった。あの先輩は、特にポニーテールが似合っていた。リトグリのメンバーの中に、ポニーテールの子が居るからかもしれない。
そう、同じように渋柿の蜂屋が好きなのは、幼い頃に女の子に囲まれて、田舎の庭先で渋抜きをした蜂屋を食べていたからだろう。焼酎で渋抜きをした柿は、トロリとして甘かった。田舎の庭には巨木と言えるような蜂屋の木が植えられてた。その渋抜きをした柿はお菓子のようなものであり、ネエ達の膝の上でチュルチュルと柿のトロ身をすするのが好きだった。

時間の流れは残酷だ。様々な美しく楽しかった思い出も、いつの間にかその姿を変えてしまう。あの先輩以上に、今の自分の姿は変わって、醜い爺さんに変わってるのだろう。せめて健康で自由に歩き回れるだけ、幸せなのかもしれない。
今夜は幾ら飲んでも酔えない。
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