ガラスに映る我が姿

赤城山の大沼と小沼、噴火口としての形を見たいと思い、赤城山に行った。赤城山の大沼に行くのは、何十年ぶりのことだろう。20代前半の、写真機を購入した頃に行き、その後は行く機会も無かったようだから、半世紀ぶりになるのだろうか。

冬至というにはまだ早いが、赤城山山頂の、紅葉も過ぎて寒々と荒ぶれた湖面を走る風に晒され、赤城神社社務所の窓ガラスに見た我が身に、杜甫の「冬至」を思い出した。老境に至りて、栄光の都を離れて旅を続ける身を、独り傷む想いに感ずる詩だ。自分自身はすでに老境さえも過ぎて、ただ朽ちるのを待つのみとなった身だが。

年年至日長為客  
 忽忽窮愁泥殺人  
 江上形容吾独老  
 天涯風俗自相親  
 杖藜雪後臨丹壑  
 鳴玉朝来散紫宸  
 心折此時無一寸  
 路迷何処是三秦

年年至日 長(つね)に客と為り
 忽忽たる窮愁 人を泥殺(でいさつ)せしむ
 江上の形容 吾(われ)独り老い
 天涯の風俗 自ら相い親しむ
 杖藜 雪後 丹壑に臨む
 玉を鳴らし朝来 紫宸に散ぜん
 心折れてこの時 一寸なし
 路は迷いて何れの処か是れ三秦なる

参考  中国詩勉強、杜甫・「冬至」 [2020.10.30]

http://japan.visitbeijing.com.cn/a1/a-XDI93E75AC06AEB9105F09

毎年、寒い冬至を独り迎えている
 深い絶望の愁いは、私に纏わり付いて離れない
 長江の流れに身を映せば、我が身独り老いてる
 故郷を離れたこの地の風俗にも親しむようになった
 藜(あかぎ)の杖をついて雪の消えた赤色に見える谷を覗く
 都では腰の玉を鳴らしながら紫宸殿から下がる頃だろう
 私の心は折れて一寸の大きささえ無くなった
 都の方を眺めても、我が道に迷い何処に在るのかさえも分からない

いつの間にか一人になり、人生の最期を迎えようとしてる。幾ら頑張り、まだまだ出来ると思っていても、思いもかけず我が身を鏡に見ると、あまりにも老いた姿に愕然とした。これが現実なのだろう。何とも寂しいものだ。

共に暮らすのは老猫一匹のみ。いま、布団の上で咳をしてる。いつのまにか、猫は我が身を追い越した年齢となり、病がちになってきた。この猫一匹を守りきることが、大事な人を守れなかったことの悔いになるのだろうか。冬至を過ぎれば、やがて極寒の季節は過ぎ、柔らかな日の光の春になる。それが季節の移ろいだが、人のみの移ろいは春に戻ることは無い。

コメントを残す