面接授業「群馬の考古学6」を、放送大学群馬学習センターで、24日(土)・25日(日)の、2日間に亘って受けた。群馬の古墳時代の噴火災害について学んだ。
講師は、群馬県埋蔵文化財調査事業団主任調査研究員、杉山秀宏先生。群馬県の考古学の研究者で、群馬県渋川市の金井東裏(かないひがしうら)遺跡で、鉄製の甲を着た人骨を発見した。講義を受けていて、群馬県の古代史が目に浮かぶようだった。甲を着けた武人は渡来系、近くの女性は140センチと小柄ながら、40歳くらいの出産経験があるそうだ。二人は長野県で育ち、群馬の渋川に来た。職業は日本に持ち込んだ馬の飼育と繁殖、これらの技術を伝える役目だった、かも。考古学がこれほど面白く、夢の有るものとは知らなかった。夢があるというよりも、古墳や火山災害、そこに住んでた人達の暮らしぶり、それらを地中から掘り出した物を詳しく調べ、考察する。

今回の課題レポートは、古墳時代に3度の火山災害にあいながらも、その中から復興を成し遂げてきた原動力の要因を、各自自由に挙げよ、というものだ。期間は短く、字数も1,000字という短いもので、どの様にまとめて良いのか分からなかった。復興の原動力は、単なる頑張りとか、土地への執着とか、そんな簡単なものではないと思う。
2011年3月11日、東日本大震災後、瓦礫処理のために岩手県宮城野地区に入った。未だに鮮明に思い出すほど、初めて見た悲惨な状況だった。その中でも瓦礫処理をし、復興の基盤を築こうと頑張っていた。
一緒に組んだ重機のオペレーターは、休憩時間には皆を和ませようとしていた。あの状況下での談笑は奇異にも感じた。後で現場監督に聞いた話では、彼は消防団員として住民の避難誘導をし、多くの人を助けたが、自分の家族、両親と妻と2人の娘、5人が行方不明になってた。きっとあの笑顔は、自分自身を励ましていたのかもしれない。
壊滅的な自然災害に遭遇した人々を支えたもの、それは一瞬にして全ての「物」を失った、被災者の怒りや苦しみや悲しみという、何処にもぶつけることの出来ない感情かもしれない。更には共に暮らした家族や多くの同胞達、愛した人との大切な思い出の「場」を消したくないという感情かもしれない。そして、自分自身の生きた証を無くしてしまうという、自身に対する恐れかもしれない。
そんなことを、あの東日本大震災での事を念頭に書いた。
天明3年の浅間山噴火、鎌原土石ながれで住民の8割が亡くなったと記録にある。残された人々は生きた証を探すために、血と泥にまみれた手で、懸命に土石を掘り返したと思う。瓦礫や砂地を掘り起こそうとしてた、あの津波被害の人たちのように。そしてこの被災した地で、新しい家族を築いていった。それこそが、復興の原動力になったと思う。
いろいろと思い出しながら書き、また削っていたら、ちょうど1,000文字になっていた。思い出しながら涙も出てしまった。
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