今日、大阪に住む子供からの贈り物、一体型デスクトップパソコンが届いた。設定は簡単にできて、今までのノート型パソコンと同じように使える。キーボードとマウスが Bluetooth接続なので、キーボードやマウスがコード類で接続されてなくて良い。今までのノート型パソコンは13インチなので、旅には持ち運びは良いのだが、普段使いとしては目が疲れて長時間の作業には向いてないようだ。特に今は目が急激に悪くなってるので、かなりきつかった。

24インチモニタを付けたが、キーバードとの向きの違いで使いにくかった。
しかも最近はちょっと発熱が気になり、下に冷却ファンを置くようにした。手前の滑り止めが邪魔。

ましてニャンコが机に乗ると、平らに置くノート型は邪魔になる。とはいえ、わずかな年金生活者で、仕送りを受けての生活だから贅沢も言えない。
放送大学で興味ある科目を学び、WordとExcelもしっかりと学びたいと思ってる。そうなると、やはりそれなりのパソコンは欲しい。役場で使用後の中古パソコンが、年に1度安く売りに出される。それを探していたが、息子がどのサイズと聞いてきたので、出来ればデスクトップで24インチと伝えたら、注文したとの連絡が来た。
うれしかった。

デュアルモニターにすると、何となく嬉しさも倍に・・・。使い始めると、モニターよりも本体のモニターの方が綺麗で見やすく、音も良い。
ニャンコが机の上に上がってもキーボードの邪魔にならない。意外と一体型デスクトップというのは使いやすい。自宅での作業には、ノート型よりも優れてるかも。
今回はZoomも入れてみた。リモート授業にZoomが使われてるからだ。全てスマホだけで済ませていたが、スマホを使いすぎると目が悪くなる。長時間使い続けられない。

ネット配信授業を視聴したり、本を開いたり、疲れたらニャンコの背中をさすって気晴らししたりと、机が広く使えるようになった。実にありがたい。

男女二人の子供を得たということは幸せなことかもしれない。1時間の距離だが、多少口うるさい娘が身の回りの気配りをし、大阪に暮らす男の子からは仕送りとか必要なものを送られてくる。ありがたい気持ちはあるが、果たして親として2人に対して充分なことが出来ていたのだろうか。
現在のコロナ禍で、経営で苦しんでいる人も多い。自営の時にはそれに負けない苦しみもあった。従業員を抱えて1年以上も仕事が無く、借り入れを続けていた。新規に仕事を受注しても、従業員の能力が着いていけずに、真夜中まで1人でケガキを入れていた。実際、5,000万円を超える借入金があり、自死も覚悟した。家族に負債を残さない、最後に選べる最良の方法が自死だった。
銀行も市役所も、ここまで行き着くと対応の方法も見つからない状況だった。たまたま返済を伸ばせないかと相談した所の責任者が、曾祖父を知っていた。
誰も相手をしたがらないので、暇だったその人が対応したのだが、名前を聞いて足利市生まれかと聞いてきた。自分も自死を覚悟すると意外なほど気持ちも落ち着いて、そのムダ話に付き合った。
その人のお爺さんは、昔曾祖父に恩義があるといっていた。大変に頭の良かったお爺さんは、曾祖父の寅三郎さんの支援を受けて、当時の日本トップの最高学府を卒業して、国家公務員になったそうだ。両親は小作人として生活が厳しく、家を出られないというと、両親の世話も生涯続けてくれたそうだ。そんな子供が数人いて、みんな曾祖父に感謝してるといってた。特にその人の子供も同じく国家公務員になり,自分も父親と同じ公務員になったそうだ。祖父から寅三郎さんの話を何度も聞かされ、退官後の再就職は収入よりも足利に近い勤務地を選んだそうだ。
その人の計らいで様々な手法を打ってもらい、あの時の苦しさから逃れることが出来た。自死を覚悟したときに、今は亡き曾祖父や祖父が助けてくれたのだろう。その後お礼に行こうとしたが、すでにその部署は閉鎖されて、名前も聞いていなかった。詳しい親戚に聞いたが、曾祖父の寅三郎さんはチョット変わった人で、頭の良い子供がいると資金援助をして大学まで行かせたそうだ。それがいつかはこの土地や多くの人の役に立つと考えていたらしい。頭の良い子は頭を、体の強い子は体を鍛え、それぞれの分野で上下無く協力し合うことだ、というのが曾祖父の考え方だったそうだ。
祖父を尊敬していたが、その時の話で曾祖父に対する想いも変わった。自分にとっての曾祖父は、自由奔放な行動をするだけと思っていたから。
そしてそういう尊敬する人たちの血を引く自分は、自分の子供達だけでさえ満足な教育を与えられなかったのではと、反省してる。もう少し目配りが出来ていたら、2人の人生は変わっていたのかもしれない。仕事、というよりは返済ばかりに追われ、申し訳なかったと思う。大学まで上げるのが、しかも充分な仕送りも出来ず、苦労を掛けさせたと思う。
近い親族の男性は皆短命だ。寅三郎さんは、今まで50を超えた者はいないと村人を呼んで、50歳のお祝いをしたら、その帰り道に亡くなった。数えは50歳だが、満年齢では満たなかった。祖父は長生きで60歳だった。ほとんど60歳代で亡くなってる。その覚悟をしていたが、70歳になった。70歳になった。残り、あと何年生きられるかは分からないが、最後の願いは迷惑をかけぬように、ほとんどの親族と同じような亡くなり方、翌朝目が覚めたら息をしていなかった、という簡単な最期を迎えたい。
最期を迎えるまでは送られたパソコンと、興味あることを学ぶことで楽しみたい。
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