老神温泉 穴原湯 東秀館|群馬県沼田市

東秀館は群馬県沼田市利根町穴原、老神温泉街の中というよりも、内楽橋を渡って左側に在る。自前の源泉井老神1号泉を独占使用してる、明治期より続く伝統ある純和風旅館だ。といっても、意外と目に付きにくいところに在る。老神温泉には何度も行き、もちろん宿泊もしてるが、東秀館のことはついぞ知らなかったというのが正直なところだ。その手前に「老神温泉湯元華亭」という日帰り温泉専門の施設があり、その隣にも関われず知らなかったとは。老神温泉は昭和5年の国民新聞読者投票「全国温泉十六佳選」で7位になってる。この時、草津温泉・四万温泉・伊香保温泉という、群馬の誇る名湯が20位以内にも入っていなかったのが残念だ。観光や療養よりも湯治が目的の温泉地と捉えられていたのだろうか。

この宿を知ったのは温泉の研究会などで知り合った人のSNSを見て、東秀館の名を初めて知った。HPではアルカリ性単純温泉となってるが、その源泉の湯使いや鮮度や香り、入浴での肌の感触が素晴らしいと聞いていた。いつかは行きたいと、GoogleMapでチェックしてた旅館だ。

当時のGoogleMapに表示されてた金額が少し高くて、しかも一人旅プランも無くて、娘の厳命で4月からの武漢肺炎・新型コロナの影響で数ヶ月も外に出られずにいた。その娘からの誘いがあり、ここ東秀館に来られた。金額的には驚くほど、このクラスの和風旅館と手入れのされた日本庭園と食事内容では、歴史ある宿としてもかなりの低価格に思える。群馬県の「泊まって!応援キャンペーン」で5,000円のキャッシュバックがあり、民宿程度の金額で泊まれた。この事を書いたら、Googleの金額表記が変わっていた。実際に泊まってみて、低価格の設定になってて、この金額なら年金生活者でも充分に楽しめるし、療養の連泊にも良い。

穴原湯 東秀館

穴原湯 東秀館 HP 〒378-0322 群馬県沼田市利根町穴原1151

本格的な温泉地として旅舎が建てられたのは、記録が見つからず調べる機会も無いので詳細は不明だ。老神温泉の項でも書いたが、明治以降の殖産産業として、絹織物が奨励された。沼田地区の養蚕農家で育てられた作られた繭玉は、明治期群馬のシルクロードとして、沼田から東秀館前の穴原地区を通り、南郷村から今の利根郡根利町を通り黒保根から大間々町へと運ばれた。

この東秀館は穴原温泉として、老神温泉の方は上ノ湯元館・下ノ湯元館が、明治の初め頃に開業されたようだ。老神温泉の歴史は分かる程度で、「老神温泉| 群馬県沼田市利根町老神」に書いた。その中で老神温泉・穴原温泉・関場温泉についてもまとめたが、更に調べて加筆していこうと思う。

東秀館浴室跡

東秀館旧野天風呂跡

泉質

泉質はアルカリ性単純温泉。成分分析表からも確認できる。残存成分520mg/kgと表記されていたが、もう少し濃いように感じた

入浴すると、ほのかに硫化水素臭がする。硫化水素臭は大好物で、年に数回は我慢できずに万座温泉に通ってるくらいだ。強い香りでは無く、浴室に入った時や湯に首まで浸かってると、ホンノリと香ってくる。アルカリ性(pH8.44)らしく、少しヌルヌルとした肌感覚がする。内湯は源泉(源泉温度50.7℃)の注入量で温度管理をしてるようで、3ヵ所の岩湯温度がそれぞれ違う。41度代と42度程度、43度程度が特に良かった、元々が熱湯好みなので・・・。なんどか入ってると源泉の鮮度の強みなのか、あまり熱くなくても充分に温まる療養泉として連泊湯治が良いのかもしれない。湯の感覚が軟らかく包まれてる感覚が、熟成されたような泉質に感じた。

万座温泉は少し熟成させた湯が軟らかく好きなのだが、ここ東秀館の湯は鮮度の良さと還元系の温泉の良さ、熟成されたような柔らかさを感じた。何となく単純泉とは違う様な気もする。還元系の源泉はアンチエイジングに良いとか、体の酸化を還元させるには1日では無理だろう。

東秀館の湯が気に入り200回も通った人が、昭和41年6月1日の成分分析表を木の板に刻んで贈られた物が、内湯までの廊下に飾ってあった。そのくらい気持ちの良い温泉といえる。その成分表を見ると1,200mg/kgとある。しかも石膏土類硫化水素泉とあった。今流の表記では、Na・CaーHC3・Cl・SO4、となる。これはなんというのか、含硫黄ーナトリウム・カルシウムー炭酸水素塩・塩化物・硫酸塩泉、で良いのかな、初めて見た。温泉は生き物だから、他所に新たに源泉井の掘削も行われただろうから、泉質も変化したかもしれないが、アルカリ性単純泉とは思えない濃さのような肌触りと、いつまでも湯冷めしない源泉の強さを感じた。

確かに温泉に興味があり、温泉の好きな人には引きつけられるものがあるのだろう。立ち寄り温泉も出来るので、捜索で知ったのだろう。自分流の温泉の楽しみ方としては、出来るなら連泊で楽しみたい泉質だった。源泉名は老神1号泉となってるが、元々が穴原温泉の自家源泉自然湧出を、ここ東秀館が全て使って、源泉掛け流しにしてる。

昭和40年に下流域で薗原ダムが出来た。その為に移転をしたそうだが、今の東秀館男湯の露天風呂近くから下に掘れば、ちょうど昔の自然湧出と同じ程度の高さに源泉がある。なんどか近くで見たが、源泉からそのまま湯口まで運ばれている。湯の使い方は贅沢なのかもしれない。個人的には強烈な硫化水素ガス系の、酸化熟成させた、あの白い濁り湯も好きだけど。

熱い湯が好きだけど、東秀館内湯のぬるい湯も良かった。湯に包まれて、疲れが湯の中に溶け出して、体中の緊張感が取れて、これが癒やされていくというのだろう、という感覚で眠くなってくる。

建物と庭

旅館建物は清掃もされて清潔感がある。リニューアルされたのだろうか、とにかくキレイな館内だった。確認はしていないのだが、2階までなのでエレベーターは無かったように思う。療養湯治で連泊なら、その旨を伝えて湯に近い部屋をお願いした方が良いかも。

庭も手入れが行き届いてて、写真が趣味の孫が大喜びだった。大女将・若女将ともに優しかったと、孫達には好評だった。

建物や庭の散策も良いが、老神温泉はユックリと歩ける散策路が整備されている。名勝吹割渓谷も近くにあるが、湯治として東秀館の源泉の湯を楽しみ、食事を楽しみ、老神を一周する散歩も良いかもしれない。まさに転地療法として、清涼な空気と新鮮な源泉、これらに優れている。

老神温泉地案内図

食事

飯塚玲児先生の予算別宿のレベルから見ると、1ランク以上も上だった。ちなみに最も近い版、2019年のテキストで、18,000~22,000円クラスよりも少し上かな。二間続きの部屋でトイレ付き、食事は別室で客別の部屋が用意されている。料理もかなり量も多く、夕食の内容も多彩だった。

スタッフの人達の対応も良くて、食事中も部屋の外に待機してるようだった。声を掛ければ直ぐに来てくれる。スタッフ全員がシッカリと訓練されているようだ。夕食も朝食も多彩な内容で、量も多かった。湯治目的の連泊の場合、事前に相談をして、量を少なくするなどした方が良いかもしれない。朝食から量も多かった。

東秀館の部屋にあった老神温泉の歴史について

老神温泉物語|穴原湯東秀館ファイルより

以下の老神の歴史や伝説は、「老神温泉穴原湯東秀館(おいがみおんせんあなはらゆとうしゅうかん)」客室にあったファイルから写したものです。転載許可申請中です。不許可の場合、削除いたします。

1 老神温泉の伝説

昔々、赤城の神(ヘビ)はささいな事から日光男体山の神(ムカデ)とけんかをしてしまいました。けんかは日増しにエスカレートし、いつの間にか大きな戦になっていました。両軍の兵士は多数傷つき、これ以上犠牲者を出したくないとの考えから、今の「戦場ヶ原」で最後の戦いをすることになりました。美しい草原がでこぼこの大地になってしまうほど、熾烈を極めた戦いはいつ果てるともなく続きました。この戦で兵士の流した血によって、「戦場ヶ原」は別名「赤沼ヶ原」とも呼ばれています。

土豪の土地争いかも
温泉発見伝説の多くは、鳥や獣類の怪我を治すために入っていたとか、高僧達が地元の人達のために湧き出させたというものが多い。このヘビとムカデの戦いというのは、大和朝廷の東征以前の、土豪達の土地争いのことではないかと想像してる。吹割渓谷の近くに「追貝(おっかい)」という地名がある。日光地方の兵士達の追撃を、吹割渓谷や今の老神の地形を利用して追い返したと考えると、壮大な面白い物語が想像できる。老神温泉周辺の地形も渓谷美が美しく、療養泉として湯治と共に、周辺の散策は転地療法としての効果も大きかったのではと思う。

あるとき、ちょっとした油断から赤城の神は敵の矢に打たれてしまいました。傷を負った赤城の神は、なんとか赤城山のふもとまで逃げ帰ることができましたが、男体山の神の軍勢はそこまで追いかけて来ます。「ちきしょう !」と矢を地につき刺すと、不思議なことにそこから湯が湧いてきました。 負い傷を湯に浸してみると、これまた不思議なことに傷はたちどころに直ってしまいました。傷の直った赤城の神は、追いかけて来た男体山の軍勢を見事追い返しました。その追い返し場所を今では「追貝(おっかい)」と呼んでいます。

それからと言うもの、神が追われて来た温泉と言うことで、誰言うともなくいつの間にかこの地を「追神( おいがみ)」と呼ぶようになりました。

月日はながれ、若い赤城の神も年おいてゆき、「追神」の呼び名もいつの間にか「老神」と呼ばれるようになり、また赤城の神が沸き出させた湯は万病によしとして、人々に愛されるようになりました。長年患った病も直してくれる老神の湯を見つけてくれた赤城の神に感謝して、毎年大蛇を祭る「蛇祭り」が行われるようになりました。以上が老神温泉の伝説ですが、一説によると赤城の神がムカデで、男体山の神が ヘビであると言う説や、決戦の場は穴原(あなばら)と言う場所であった、と言うような説もあるそうです。

2 老神温泉の始まり

老神の湯は誰がどうゆう形で始めたのかは、大正初期に小尾家の本家が焼失したことによって、わからないのが現状です。ただし、今で言う大衆浴場という形では昔から存在していました。宿屋は老神本村と大原(おおはら)という場所に一軒づつあり、浴場まで通ったと聞きます。その浴場は現在位置とは違い、片品川のほとりにありました。川が増水すると、ほとりにあった風呂場はたちどころに泥水に呑まれてしまい、泥の下敷きになってしまいます。その泥をどけると、お湯によって黒くなった土が見えてきます。その土を乾かしておき、近くに住んでいた人たちは何かのついでに来たときにもって帰り、自分の家のお風呂に入れました。温泉の素を豊富に含んだ土は一般の家庭のお風呂を即席の温泉に変えてしまいます。その効能もたいしたもので、 体が不自由な人たちはとても喜んで即席の温泉を楽しんだと聞きます。今はボリ容器がありますから温泉はお持ち帰りができますが、昔はそういう容器がありませんでした。あるものといえばお酒の一升瓶ぐらいなもので、持ち運びはそう簡単にはいかなかったのです。その時代の人たちにすれば、この土は宝物のようだったでしょうね。また、老神温泉の湯はそれほどよく効いたのです。このお湯の療法は、現在位置に老神温泉ができるまで続けられました。

東秀館の前の辺りに利根村と大間々町を結ぶ道路が通っていましたが、この道を通る旅人を目当てに何軒かの休憩所ができました。これがのちの老神温泉になります。

その後、休憩所は宿屋として営業形態を変えていきます。明治の初年には上之湯元館ができ、続いて川のふちに下之湯元館ができました。この二軒の登場で、昭和初期までに旅館の数は十数軒を数えるまでになりました。伝えられるところによると東秀館は明治27年、漏田本館は同33年、朝日ホテル、山口屋は同40年の創立であったと聞きます。

当時は車もなく徒歩による旅でありましたから、玄関にたらいを置き、そこで足を洗ってから部屋に通されたと聞きます。もちろん電気などありませんから、夜になると、ランプを各部屋に配りました。一晩灯りをともしておくとガラスの部分が黒くすすけてしまいます。それを洗うのは子供たちの仕事でした。子供なら手が小さいですから、ガラスの部分を洗うのに都合が良かったのです。でも洗わされた子供たちは、今のように頑丈ではないガラスを割らずに洗うのはひと苦労だったようです。

大正初期になると、今の定期バスの役目の馬車が通り始めます。発車するときに「テトテトー」とラッパを吹くところから、当時の人は馬車のことを「テト馬車」と呼んでいたそうです。

時を同じくして、電気も送られるようになりました。

3 『老神温泉郷』の発展

時代は昭和に入りました。昭和のはじめの旅館建築にともない、一つの提案が出ました。当時は「老神温泉」「穴原温泉(あなばらおんせん)」、「大楊温泉(おおようおんせん)」の三つに別れていました。これからの時代に十数軒の旅館が別々の事をしても得るものはない。それならみんなが一丸となって頑張ったほうが良い結果が出るのではないか、と言うものでした。その希望は昭和10年4月に「老神温泉郷」と言う呼び名で実現し、老神温泉旅館組合を正式に発足させました。この老神温泉旅館組合の発足によって、ただの湯治場から今日の群馬県六大温泉地の一つへと移り変わって行くのです。

大楊温泉(おおようおんせん)
大楊温泉(おおようおんせん)は老神温泉の、片品川上流の大揚地区のことかも。昭和6年の鐵道省の『温泉案内』には、老神温泉と穴原温泉しか載ってなかった。『温泉大鑑』(昭和10年:日本温泉協会発刊)でも見られなかった。 

ただし、時代はそう簡単に発展を許してはくれませんでした。太平洋戦争が始まったのです。戦争中の老神温泉は学童疎開と陸軍の病院でその幕を開けました。疎開した児童は東京都板橋区内の子供たちでした。しか し昭和20年に入り、老神温泉の湯は傷に効果があるとして傷病兵の治療にと、沼田陸軍病院老神分院の建設が計画されました。この計画で老神温泉に疎開していた子供たちは、全員大原の昌竜寺ほか数カ所に移転し、 変わって軍の少尉以下五十数名の士官が病続設置準備のため老神温泉に来ていましたが、建設準備中に終戦を迎えました。

当時は全国的に蔓延した伝染病の疥癬(かいせん)と言う皮膚病により、全国から患者が殺到しました。 そのため旅館に泊まりきれず、その辺の川原で野宿し、旅館の部屋が空くのを待つ人が多く見受けられました。

皮膚病のおかげで潤った老神温泉でしたが、それも長くは続きませんでした。昭和22年のカスリン台風、 昭和23年のアイオン台風、二年続きの台風は老神温泉に大きな傷あとを残しました。川沿いにあった旅館は 大洪水により流出(老神館(廃業)、漏田別館(廃業)、関場館(廃業)、東明館の四軒)し、客入りも激減しました。そのため旅館街は灯が消えたようになり、老神温泉苦難の時代が始まったのです。

当時の旅館、ホテル、飲食店等のオーナーが集まり相談をしました。このままでは老神温泉はお客さんの来ない寂れた温泉地になってしまう。そこで老神温泉自体の体制を整えよう、と言うことになりました。結果と して昭和29年に老神温泉観光協会が発足することになりました。老神温泉観光協会の設立によって、より充実した温泉街にしようと言う試みです。

4 老神温泉の近代化

客足も戻り始めた昭和34年、老神温泉にとってもう一つの事件が待っていました。老神温泉の下流に当たる薗原地区にダム建設の話が持ち上がりました。老神温泉付近は危険水域になるため、川岸にあった旅館五軒の移転問題が生じました。この問題によって、川向こうの旅館四軒(東秀館、青木館、太陽ホテル(現在は廃業)東明館)は現在の位置に移動しましたが、川岸にあった下之湯元館は廃業になりました。また、四軒の旅館と対岸する旅館街を結ぶため、それまで親しまれてきたつり橋に変わって、昭和39年に建設省の企画で「内楽橋」が完成しました。

昭和40年9月に完成した「薗原ダム」は洪水調整を主目的とし、発電、灌漑(かんがい)等の機能も持ち合わせた多目的ダムです。湖ではボートが借りられ、釣りの愛好家たちに今でも親しまれています。

昭和40年10月には沼田市から尾瀬と栃木県の日光市を結ぶ国道120号線が全線開通になりました。さらに、長年主要道路であった栗生道路の付け替えで「椎坂峠ドライブウェー」も開通になりました。頂上より歩いて一分のところに白沢村出身の作家「おのちゅうこう」を讃える碑があり、晴れた日には谷川連峰も見渡せる椎坂峠ドライブウェーは、今でも観光客に親しまれています。国道120号も昭和44年には全面舗装 となり、折からの観光ブームに乗って観光客も増え、それにより旅館、飲食店も増えてきたのもこの時期でした。

老神温泉には「内楽橋」があります。しかし「内楽橋」は幅も狭く、重量の制限があります。橋の向こう側にも大型バスが行けるような橋を造ろうということになり、もう一つ橋をかけることになりました。同時期に東秀館の前を横切っている道路(穴原~老神線) の着工の話とぶつかり、昭和49年のほぼ同時期に「大楊橋」と道路が完成しました。この道路と橋の完成で川の向こう側にも大型バスが入って来られるようになり、また川沿いのこの道路は老神温泉を見て回れる散歩道としても利用できるようになりました。

今では老神温泉の名物となっています「老神温泉朝市」も昭和49年5月に始まりました。

昭和57年4月には前橋市からしか登れなかった「赤城山」も、赤城北面有料道路の開通で利根村側か らも登れるようになりました。

また同年4月、追目の国道120号線のバイパスが完成しました。このバイパスの完成で、車から降りてそのまま「吹割の滝」に行くことができるようになりました。

その昔、「吹割の滝」の滝壺は竜宮に通じていると言われておりました。村で宴会事があると、 お膳やお椀を貸してほしいという内容の手紙を書き、滝に投げこみました。宴会前日に滝に行ってみると、岩の上に頼んだ数のお膳やお椀が置いてあり、振る舞いが終わると、三日の内にもとあった岩の上にお礼の手紙と一緒にお膳を置いておきます。するといつの間にかお膳やお椀が消えておりました。竜宮の人たちに村の人たちはこうした方法でお膳やお椀を借りておりました。ある日、借りたお膳とお腕を返すのに、 誤って一膳分返し忘れ てしまいました。あわてて返そうと岩の上に置いたのですが、竜宮の人たちはうそつきな人間に愛想を尽かしたのか、いつまでたってもお膳とお椀は消えることがありませんでした。それからというもの、お願いの手紙を滝壺に投げても、竜宮の人たちはお構とお椀を二度と貸してはくれませんでした。と言う、伝説のある「吹割の滝」は老神温泉の観光名所のメインになっています。国道沿いにはドライブインや売店、食堂が所狭しと並んでおり、地元の民芸品やお土産も買うことができます。

5 近年の老神温泉

同年11月には「上毛高原駅」が完成しました。道路だけではなく気ままな電車の旅も新幹線の登場でスピ -ドアップし、東京からでも1時間10分程で「上毛高原駅」に到着できるようになりました。より老神温泉が身じかになったわけです。

昭和58年は国民体育大会である群馬県大会の「あかぎ国体」が開催された年でもあります。10月の開催時には昭和天皇もご来村になり、赤城山の「ヒカリゴケ」をご覧になりました。赤城山北面有料道路を上っていくと、「ヒカリゴケ」の看板が出ています。興味のある方は、すぐ前に駐車場もありますからご覧ください。

昭和60年10月には「関越自動車道」が全線開通になりました。大型自動車の多い国道17号線を走ってきた当時とは違い、東京の練馬からでも約1時間30分でこられるようになりました。

かみつけのとねの群(こおり)の老神の時雨ふる朝別れゆくなり

皆さんご存じの若山牧水の短歌です。大正11年10月25日に秋の片品渓谷を眺め、老神温泉に一泊し、「吹割の滝」や「丸沼・菅沼」を見学し、「金精峠」を越えて栃木県に向かったときに歌ったものです。昭和60年が若山牧水の誕生100年に当たり、それを記念して昭和61年3月に利根村で記念碑を牧水が歩いて通った場所に立て、現在の大楊1号橋を「牧水橋」と命名されました。

それまで毎年川が増水しては丸木橋が流され、水量が少なくなると村中の人たちが丸太や石を集めて架け直し、増水してはまた流されまた作り直し、それを何度も何度も繰り返し作り続けられてきた橋、と言う歴史のある大楊橋も現代の技術でその幕を下ろし、替わって大型バスも通行可能な近代的な橋が出来上がりました。

昭和60年ころから野天風呂ブームが始まっていました。老神温泉にも野天風呂があります。その数を数えてみたら十二カ所の野天風呂が存在していました。十二という数から、野天風呂に十二支の干支の名前をつけてみようではないか、という案が出ました。お湯が売り物の老神温泉なのだから、できるだけ多くのお湯を気がねする事なく楽しんでもらおう、 という企画です。干支はその旅館名、ホテルの社長、奥さんにちなんでつけました。スタンプ帳、湯飲み、パーフェクト賞の急須の用意もでき、「十二支の湯めぐり」が昭和62年に スタートしました。折からの野天風呂ブームと、秘境の旅ブームに乗って大好評をいただいています。

十二支の湯めぐり
十二支の湯めぐり:子の湯(若の湯:閉館)、丑の湯(東明館:ぎょうざの満州 東明館)、寅の湯(東秀館)、卯の湯(漏田本館:伊東園ホテル老神山楽荘)、辰の湯(金龍園)、巳の湯(朝日ホテル:閉館)、牛の湯(吟松亭あわしま)、未の湯(老神観光ホテル:観山荘)、申の湯(山楽荘:伊東園ホテル老神 山楽荘)、酉の湯(山口屋)、戌の湯(伍楼閣)、亥の湯(仙郷)。残念ながら閉館されたホテル旅館もあるようです。現在は「伝説の湯めぐり」として、湯めぐり手形1枚を購入し、1年間の有効期間中に13軒の宿泊施設のうち、3ヵ所の立ち寄り湯が出来るようになりました。

時代は昭和から平成の時代に入りました。

平成3年の5月に「利根村観光会館」が出来上がりました。六百人の収容人数を誇るこの会館は、老神温泉旅館組合、老神温泉観光協会が中にあり、大きな会議や大会はもちろん、座席は電動でかたづきますから、雨天の場合の祭典などもできる多目的会館です。おもての駐車場は「蛇祭り」や「納涼盆踊り大会」等の老神温泉のイベントのメイン会場にもなり、その隣は老神温泉名物の「老神温泉朝市」の会場にもなって、この会館は老神温泉の引き立て役になっています。

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