万座温泉は草津温泉と同じく、草津白根山を熱源としています。また草津と同じく、規模は小さいながら「湯畑」もあります。万座温泉の特徴は「空吹(からぶき)」といわれる、今もなお強酸性の硫化水素ガスを吹き出し続けてる場所を近くに見ることができます。。
主に10ヵ所の源泉を使用して、湧出量は毎分3,750リットル、泉質は日本一の硫黄成分含有量を誇ります。また高地での通年営業温泉地としては、岐阜県下呂市の濁河温泉と共に、日本で最も高地での温泉地となっています。上信越高原国立公園内にあることから、建物の増改築に対しての規制が厳しく、歓楽街的な場所はもちろんコンビニも飲食店さえもありません。
万座温泉は上信越高原国立公園内
万座温泉観光協会 群馬県吾妻郡嬬恋村万座温泉
万座温泉の歴史
万座温泉の開発史に関しては、草津温泉や四万温泉との関連もあり、とても興味ある面白いものがあります。詳しい資料は手元に無いので、多少は憶測でまとめてみます。
先史より戦国時代まで
万座温泉の発見に関しての記述は無く、熊四郎岩窟の中で土器が発見された事から、既に先史時代より万座温泉は利用されていたと考えられます。万座温泉は1,800mという高地から、通年でここに住居していたとは思えません。記録としては、明治30年に常盤屋の中沢たつという人が宿で一冬を過ごし、以降越年するようになったと記録にあります。
古くから「まんざ」とよばれ、仮屋があったということです。冬期は山を下りていたそうです。この件についてはこの程度の記述しか見つかりません。この仮屋は修験者の作業場ではと、勝手に解釈してます。硫黄は日宋貿易でも極めて貴重品でした。中国の宋代は火薬が大量に作られたが、残念なことに中国では活火山が無く硫黄が採れません。日本産の硫黄が貴重でした。山の奥で修行をする修験道は化学知識の豊富だったと思われます。硫黄の採掘は時に権力者との繋がりや資金源になったのかも、などと想像してます。
坂上田村麻呂が万座で鬼退治をしたとの伝説もあるそうですが、それを記した文書はまだ読んでいません。この地は高知であり、強酸性の亜硫酸ガス・硫化水素ガスが噴出して硫黄も取れ、更には殺生ヶ原の様荒涼とした地域もあり、修験道の行者達が修行の場としていたようです。
戦国時代から江戸初期まで
万座温泉の紹介HPでは、1562年(永禄5年)「加沢記」羽尾入道の入湯記録、1715年(正徳5年)「万座薬師堂」創建、1764年(明和元年)江戸の長峰藤吉「万座温泉を発見」と記す、1765年(明和2年)硫黄稼業を開始、とありました。
羽尾入道に関してはおもしろい記録が散在してるようです。また武田信玄の上野への進出の切っ掛けにもなったようです。この加沢から中之条、さらに沼田の地域の攻防は戦国時代のロマンを感じます。
登場人物は、岩櫃(いわびつ)城主斎藤越前入道憲広・羽尾(はねお)城主羽尾入道・鎌原(かんばら)城主鎌原宮内少輔(かんばらくないしょうゆう)の3人の土豪の領地争いと、真田幸綱・武田信玄です。さて、この領地争いと真田氏の動きが、とてもとても面白いことになります。
永禄5年(1562年)3月、長く続いた鎌原氏と羽尾氏との領地争いで、武田信玄の裁定で領地境界線が確定されました。それを不服とした羽尾氏が鎌原城を攻め落とし、鎌原氏は信濃の武田氏の元に逃れます。翌永禄6年3月、武田信玄の命を受けた真田氏が鎌原城攻略に向かいます。おりしも羽尾入道は万座温泉に赴き湯治中であり、難なく鎌原城は落ちて羽尾入道は信濃国高井郡へ逃れます。羽尾入道は軍勢を整えて吾妻郡に戻り、同年10月に岩櫃城主の齋籐氏と計り鎌原城を攻めます。
武田信玄と真田信綱が援軍を送りますが、難攻不落の要害といわれた岩櫃城を落とすのは、極めて困難と思われました。ここで真田信綱の調略で城内に裏切り者を作り、岩櫃城を簡単に落とし、以後真田氏はこの城を治めることになります。この時に岩櫃城主の齋籐氏は、今の四万温泉の辺りを通って上杉謙信の元に逃れます。この頃は武田信玄の北信濃侵攻による、上杉と武田の12年間に亘る「川中島の戦い」のさなかでもあり、齋籐氏は上杉に逃れる事が出来ました。真田氏も、上杉が関東に進出するためには吾妻の地で食い止めるために、岩櫃城を手に入れることができ、更には沼田城攻略のチャンスを掴んだことになります。
江戸時代の万座温泉と硫黄の採掘
徳川の時代になると世の中は落ち着き、隣の草津温泉は湯治場としての活況をみせてきます。万座では西窪治部左衛門という者が湯小屋を建ててわずかな日銭を稼いでいた。せっかく万座にも素晴らしい温泉があるので、1766年(明和3年)に3ヵ村がまとまって許可願いを出し、湯宿を建てて湯治場としての営業を始めたようです。しかし残念なことに道が厳しく、冬は雪が積もり、3ヵ村が湯銭(入湯税)を上納できずに、わずかに村民が利用するだけで2年で閉鎖となったようです。
1765年(明和2年)頃、江戸の長峰藤吉が温泉宿を願い出て営業を開始しました。これも利益を上げることも出来ずに譲渡してしまいます。長峰藤吉は江戸の薬種商で、貴重品であった硫黄を1764年(明和元年)に吾妻の地で発見します。万座温泉を見つけたとし、湯宿と共に、硫黄や明礬の採掘を始めています。万座の歴史は、湯宿と共に硫黄の採掘なども係わっているようです。
明治以降の万座温泉の発展
明治の初め頃「湯畑」近くに、田代の橋詰久兵衛が旅舎を建てます。1873年(明治6年)久兵衛は湯小屋を「日新館」として温泉宿としての営業を本格的に始めます。
1897年(明治30年)に須坂山田温泉の中沢たつが、万座で2軒目の旅館「常盤屋」を開業します。1935年(昭和10年)「大和屋旅館」「松屋ホテル」が開業します。
万座温泉とスキー場
万座温泉への道は国道292号線と万座ハイウエーがあります。292号線は冬期は閉鎖となり、草津白根山の噴火や地震、硫化水素ガスの噴出などにより、閉鎖になります。主要道路は通年開通してる万座ハイウエーだけとなります。万座温泉の発展はスキーの発展と共に在ったように思います。
1949年(昭和24年)上信越高原国立公園に指定されます。以後、新たな建物や増改築には厳しい規制が掛かるようになりました。国立公園内ということで、歓楽街的な建物や遊興施設、飲食を目的とした建物さえ建てられなくなりました。施設が古く感じるのも、硫黄ガスの影響と国立公園内の規制のためです。
1956年(昭和31年)戦後のスキーブームもあり「万座温泉スキー場」が営業開始になります。
1960年(昭和35年)12月24日、万座プリンスホテルが開業され、スキー場の整備も進みます。1963年(昭和38年)「万座温泉観光協会」が設立され、温泉地とスキー場としての発展が続きます。
1973年(昭和48年)西武鉄道堤氏により、有料道路「万座ハイウエー」が整備され、安全に万座温泉への道が完成しました。
万座温泉の効能
万座温泉は20を超える源泉がありますが、主には「湯畑」「姥の湯」「大苦湯」「鉄湯」「法性の湯」などの10ヵ所です。涌出量は毎分3,750リットル、強酸性のpH2.4~2.7、泉温は65~84℃、泉質は酸性・含硫黄ーマグネシウム・ナトリウムー硫酸塩泉がメインです。
貴重な「正苦味泉」と効能
硫酸塩泉は4種あります。旧表示の方が分かりやすいので、芒硝泉(ナトリウムー硫酸塩泉)・石膏泉(カルシウム-硫酸塩泉)・正苦味泉(マグネシウムー硫酸塩泉)・明礬泉(アルミニウムー硫酸塩泉)です。このうち、明礬泉はアルミニウム泉として別扱いになってます。万座温泉の泉質である正苦味泉は日本では極めて貴重な、珍しい泉質といわれています。
「脳卒中の湯」といわれるくらい貴重で、効能も高血圧症・動脈硬化症の予防や、脳卒中の後遺症の改善にも良いといわれています。
日本トップクラスの濃厚「硫黄泉」と「酸性泉」の効能
硫黄分が1kgに2mg以上で含硫黄泉として、療養泉になります。「硫黄泉」は肌が白く綺麗になるといわれています。湧出されたときは無色ですが、時間と共に酸化が進み白濁した温泉になります。臭いは卵の腐った様な、硫化水素ガス特有の臭いがします。また「酸性泉」は皮膚表面の高い殺菌効果により、ニキビ・水虫・皮膚疾患・アトピー性皮膚炎などに効果が顕著です。
「硫黄泉」もその効能は非常に優れています。慢性皮膚炎・婦人病・切り傷・糖尿病・高血圧症・動脈硬化症・痛風・関節痛・便秘などに良いとされています。呼吸からガスを吸い込むことで、痰が切れて楽になるといわれています。ただし万座温泉の硫化水素ガス濃度は日本で一番濃度があるので、浴室では常に換気をしています。
また硫化水素成分は末梢血管の拡張効果が有り、末梢血管の循環が良くなるので代謝促進作用となり、老廃物の代謝にもなります。硫黄分は肌のクスミや色白になるといわれています。
高原にある万座温泉の空気と水
万座温泉は上信越高原国立公園内にあります。1,800mの高地は気圧が低くなり高地の気候により、呼吸が整うそうです。国立公園内ですから、遊興施設もなく静かに過ごせます。水も大変に美味しく、この行為源の気候と空気と水は、最高の転地療法となります。
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