『温泉案内』にみる下北半島の温泉地

昭和17年発刊『温泉案内(鐵道省)』を読んでる。コレが本当におもしろい。温泉その物に関しては、同じ古書でも『温泉大鑑(日本温泉協会)』があり、温泉に関しての見方などはあまり変わっていないような・・・、それでいて妙に新鮮にも思えた。

『温泉案内(鉄道省:昭和17年刊)』は戦前発刊だけに、純粋な温泉地がわずかな文字数の中にも往事を想像できて楽しい。現在と違い、ほとんどが自然に湧いて出てる、自噴泉が多いようだ。当然の事ながら、昔の技術では大深度掘削は難しく費用も掛かってしまう。今は技術も進み、温泉ブームもあって商業ベースで開発され、乱掘ではと思えてしまうほど、大都会東京でも温泉は湧いてしまう。大深度掘削を行えば100mで3℃位温度が上がる。泉温が25度以上なら温泉・療養泉になってしまう。昔の『温泉案内』を読み、現在と比べることで今に残る本物の温泉地と旅館を知ることが出来る。

こちらの『温泉案内』は昭和17年に鐵道省がまとめた物で、当時の鐵道路線に沿ってまとめられてる。朝鮮・満州・台湾の温泉地も載ってる。

温かくなったら「北帰行」ならぬ、「北遊行」に行きたい。

5月で70歳になる。良くこの歳まで生きてこられたと思う。10歳まで生きられないとか、20歳までには・・・などと言われながらも、よくぞこの歳まで頑張ったと思う。キータンには申し訳ないが、しばらく旅に出たい。

青森県の下北半島の部分を読んだ。

宇曾利山(恐山)はあまり変わっていないように思える。温泉地というよりも、宗教施設の中に温泉が湧き、参詣前に身を清める湯垢離(ゆごり)に使われている。

大畑線に沿うて、として薬研・下風呂・湯野川の3ヵ所が紹介されてる。大間を含めて行きたいところだ。この『温泉案内』と現在を比べると、時代の流れを強く感じる。

薬研温泉には「古畑旅館」という、400年18代に亘って受け継がれていた総ヒバ作りの名旅館があった。現在は旅館は閉鎖され、晃山楼(こうざんろう)という立ち寄り湯として再開されてる。近くに民宿と旅館もあるらしい。昔は渓谷のような大畑川沿いに、薬研の形をした湯船があったらしい。川の氾濫で流されるので、古畑旅館として涌出する湯を引いた。経営者は平家の落人で、ここに残されて湯宿として受け継がれてきたそうだ。

近くに奥薬研温泉としてかっぱの湯夫婦かっぱの湯がある。

下風呂温泉はぜひ行きたい温泉地だ。『温泉案内』では角長(長谷旅館)と丸本(まるもと旅館)、大湯・新湯が紹介されてる。今は長谷旅館は閉鎖解体され、跡地に立ち寄り湯として新たな施設が建つ予定だ。300年も前から地元の共同湯として、戦前の温泉地としてはこの外湯だけだったようだ。伝統ある外湯の共同湯は2020年6月で閉鎖解体され、新たな施設に配湯予定になってる。『温泉案内』を読んでると、6月の解体前に行きたい。

『温泉案内』には載っていないが、現在は大間には「おおま温泉海峡保養センター」と民宿が数軒あるようだ。下風呂温泉から大間までの途中に、立ち寄り温泉「桑畑温泉湯ん湯ん」もある。戦後の温泉ブームで、掘削技術のたまものだろう。

湯野川温泉では、寺島館、岡村旅館と3ヵ所の共同浴場が載ってる。大正時代に全盛を誇ったということだ。戦後には温泉ブームで観光ホテルも出来、旅館も数軒あったようだが、今は昔からの寺島旅館岡村旅館、立ち寄り温泉「湯野川温泉濃々園(じょうじょうえん)」だけのようだ。

伝統ある大湯・新湯の激熱共同浴場が無くなる前に、何とか行きたいものだ。人は何故、北に行きたがるのだろうか。そして、温泉ブームとか秘湯ブームといいながら、本物の温泉地よりも便利さや豪華さを選んでしまうのだろうか。

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