草津温泉湯畑に行くと、その湯畑源泉と白旗源泉の更に先、長い階段を上ったところに真言宗豊山派の光泉寺が建っている。本堂は鉄筋コンクリート作りで、屋根はアルミニウム葺きなので、観光客の中には最近の建物のように思われてしまうかもしれない。この光泉寺は草津温泉と共に、長い歴史を刻んできた、由緒ある寺院である。草津温泉とは縁が深く、草津に来たらぜひ参詣をして頂きたいところでもある。

草津山光泉寺
寺号:草津山光泉寺(くさつさんこうせんじ)
宗派:真言宗豊山派
本尊:薬師如来
真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
開基:行基(伝 薬師堂の建立)
開創:養老5年(721年)
光泉寺は1200年(正治2年)湯本氏によって白根明神の別当寺として再建された。有馬温泉温泉寺、道後温泉石手寺と共に日本温泉三大薬師と言われている。
関東薬師霊場第四十四番札所。
光泉寺由来
草津温泉の湯畑を望むように、高台に建っているのが光泉寺である。創建は伝承として、養老5年(721年)にこの地を訪れた行基が、彼方に上がる湯気から温泉を発見し、ここに薬師如来を祀ったことに始まると言われている。
更にむかし、日本武尊(第12代景行天皇の皇子)が東国征伐の帰途に湯煙を見て草津温泉を発見したと言う伝承もある。
文書としての記載は、平安時代末12世紀頃の『上野国神名帳』吾妻郡の項に「白根明神」「小白根明神」とある。この地を治めていた湯本氏が、白根明神別当寺として正治2年(1200年)に薬師如来堂を再建したとされている。


鎌倉時代には幕府から地頭職を受け、南北朝時代には南朝側について僧兵を率いて戦った。戦国時代には猿ヶ京の戦いで上杉勢に助力して、上杉謙信より感謝状も受けている。光泉寺は歴史もあり、勇猛果敢な望月氏の流れをくむ、歴史に名を残した古刹でもある。
豊臣秀吉も草津温泉の効能を知り、療養のために来たいと思っていたがその思いは果たせなかった。徳川家康は秀吉より草津温泉を薦められていたそうだ。徳川家八代将軍の吉宗の時には、草津の湯を江戸城まで運ばせたそうだ。それが「将軍お汲み上げの湯」と呼ばれるゆえんだ。

湯畑の中、木枠の部分が将軍家に献上のために汲み上げる所。
世の中が安定した江戸時代からは、草津温泉に係わる人達や、病気治癒を願って草津温泉に来た人達の参詣を集めることとなった。明治に入るとドイツ人医師ベルツが通い、「草津には、無比の温泉以外にも、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。このような土地が、もしヨーロッパにあったとしたら、カールスバードより賑わうだろう」と大絶賛して世界に紹介した。
明治期以降、多くの文人墨客や政治家も訪れ、広く知れ亘っていった。
境内の散策
山門の阿形・吽形の仁王像を通ると、更に石段は続きます。

右手に不動明王を祀ったお堂があり、左に湯善堂がある。山門をくぐりその間を、更に石段は続く。けっこう疲れる。

石段を登り切った右手直ぐに「安永八年 百八十八番供養塔 忍性」とあったけど。その奧が有名な「遅咲き如来」の釈迦堂。

いくら努力しても認められない人はこの釈迦堂を参詣すると、遅咲き如来の功徳により、次第に努力の結果が実るかも。

鐘撞き堂もあります。1回100円でつけます。

左は野島小八郎の顕彰碑。野島小八郎は越後三条から明治11年に草津温泉に来て、明治13年より初代熱の湯湯長となり明治43年までの31年間にわたり努めた。江戸時代後期より始まった「時間湯」の、草創から確立まで貢献した人である。
左は明治38年に入浴客達により建てられた「入浴逝者供養塔」。源頼朝以来、病気療養に為に草津に向かった人が旅の途中で亡くなったり、療養中に亡くなった人達の供養塔として建てられた。
後ろの本堂は昭和46に建立された。開山以来5回にわたり火災に遭った。鉄筋コンクリート平屋建て、アルミ板葺きで建てられてる。一般的な銅板では、草津温泉の強い酸性泉を含んだ空気では、直ぐに傷んでしまうようだ。

石段がキツいという方には、町営の駐車場から歩いて境内に入ることも出来る。飯島館駐車場、ぬ志勇の玄関の通りを進めば、ユッタリとした坂道で本堂まで続いてる。