八ッ場ダムの試験湛水

完成した八ッ場ダム

9月27日より、数日間を草津温泉で過ごした。草津温泉に向かうときに、八ッ場ダムを見られるダム近くの橋の駐車場に寄った。もう既にダムは完成されたらしく、工事車両も見当たらなかった。いつも見るような光景とは少し違っていた。

更に進んで「道の駅 八ッ場ふるさと館」に寄ると、多くの草津温泉への観光客達が休憩と買い物を楽しんでいた。やがてダムに沈む吾妻渓谷をまたぐ橋を散策し、雄大な景観に驚いていた。橋の下の道はかなり景観も変わっていたが、確かにあの道は、亡くなった妻と共に年に数回の草津へ通った道だった。草津温泉の上がり湯として「王湯」にも寄った。いつかはユックリと川原湯温泉にも泊まりたいね、などと話した事も思い出す。

湛水を待つために、工事車両も人も見えない

翌日、宿のロビーで何気なくテーブルにあった地元の上毛新聞を見たら、第一面に「八ッ場ダムの試験湛水(たんすい)」との記事が載っていた。10月から試験的に貯水を始めるようだ。

八ッ場ダムの計画というか、歴史的な流れについては「八ッ場ダム計画の歴史」に詳しい。

ダムの案内図

洪水のための治水事業とか、農業用水利用とか、様々に掲げる利用目的が変わったように思う。地元群馬県人としては、「上毛カルタ」に詠われた「耶馬溪(やばけい)しのぐ吾妻峡(あがつまきょう)」として知られ、紅葉の季節だけではなく、新緑の頃も盛夏の暑さをしのぐ爽やかな流れも、この地は歴史ある温泉地「川原湯温泉」と共に親しまれてきた。

今年の夏に話題になったバンジージャンプ

川原湯温泉の昔の様子を書いたこともあった。高校3年の夏、既に60年近く前のことになるのだが、運転免許証を取って初めての一人ドライブでたどり着いたのが、川原湯温泉だった。当時はダム建設反対などの立て看板も立てられ、何となく殺伐とした空気感があった。

様々な利用目的があるようだが、要は東京都という大都市のための水瓶として、多くの文人も訪れた歴史ある川原湯温泉を水没させようと言うことに他ならない。住民を二分するような事もあったらしいが、昭和27年の計画決定から70年間を経て、ようやく完成へとなった。

草津温泉への途中、狭い道だが自然が美しかった。

吾妻渓谷の全てが水没するわけではないが、大半が湖底に沈むことになった。あの狭い道の両側に小さな旅館が並んでいた、歴史ある川原湯温泉街は全て水没し、村は消えてしまう。高台に温泉宿や住民の住まいは移転されたが、元のような静かな平穏な暮らしは戻るのだろうか。というよりも、ダム建設前の平穏な暮らしなど覚えてる人はどの位居るのだろうか。

時代により目的は変わったが、ダムその物の計画は進められ、一時政権交代により粛々と進んできた計画が、またもや論争のタネとなり、落ち着いていた住民の生活は再び翻弄された時期もあった。

高台に移転した川原湯温泉

いよいよ試験湛水とはいえ、本格的にダムが出来る。あの豊かな吾妻渓谷を包んできた山々や、高山の木々の間を流れてきた爽やかな空気、人工物とはいえ吾妻の水をたたえたダム湖も、同じ自然の一部として、新たな川原湯温泉の歴史を築いてもらいたいと望む。

初めて川原湯温泉を訪ねてから60年、妻との思い出と共に、様々なことが甦る。悲しくもあり、寂しくもあり、これからは安全に楽しく暮らせるような、新たな未来をこのダムが築いて欲しいと願うばかりだ。

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