昨日、叔母の葬儀に出席した。叔母、イセ姉の高校生の時の写真が、告別式会場入り口に想い出の写真の一つとして飾られていた。若いときから現在までの写真を眺めながら、昔を思い出し、人は生きてきた様に死に向かい、最期を迎えるものだとの思いを強くした。
イセ姉との付き合いは、その姉のカツ姉と共に長い。二人は父の一番下の姉妹で、私が生まれたときから小学校の低学年になるまで、ずっと子守役として守ってくれてた。姉は和裁を、妹のイセ姉は洋裁を高校で学んだ。
洋裁の技術を活かして縫製関係に就職し、そこで叔父と出会い結婚し、独立をして縫製会社を立ち上げた。叔父の真面目さと叔母の性格の明るさもあり、有名ブランドの専属になったようで、それなりに事業は成功した。子供達もそれぞれ立派に育ち、特に一人は大学卒業後に服飾関係の専門校で再度学び、今はデザイナーとしても成功してると聞いた。厳しい、いささか厳しすぎる父親の叔父であったが、その陰で子供達の支えとなって良く育てたと想う。たぶん私を支えててくれた時のように、明るく冗談を言いながら見守っていたのだろう。

20代の頃から、父の名代として葬儀に出る機会が多かった。親戚も多く、死期の近い人の見舞いにも父の代わりに行くことも多かった。普通の人よりも多くの、死に向かい合い、死に逝く刹那の人と会い、妻の入院中には死期の近い人達の入院生活を身近に見てきた。
不思議なことに、多くの人が元気な時の性格がそのまま強く出てくるようだ。それが良いのか悪いのかは分からないが、周囲の人達への影響も強く感じられる。
妻が大学病院から転院して、近くの総合病院の大部屋に入ったとき、他の病院に併設されている老人養護施設から入院で来た人が居た。その方は自営の会社を夫亡き後、一人で切り盛りしてきたそうだ。老いて後を子供に任せて設備の整った有料老人ホームに入ったそうだ。女性社長として、さぞ厳しく会社運営をされていたのだろう、入院後にもそれが表れていた。注射をする看護師にも厳しく、入所していた老人ホームからのお見舞いには「この人はねえ、取っても注射が下手なの。痛くて痛くて・・・」などと本人を前にして話し、老人ホームの方も困った顔をしていた。
2週間もすると、次第にベッドから降りることも出来なくなり、全てを看護師さんに頼むことになった。何かを落としても看護師を呼ぶ。見ていても実に頻回に呼び、迷惑顔になっていた。時々落ちたものを拾ってやると、それが当然のように今度は私を呼んで、細々とした些細なことまで頼むようになった。ああ、この人はこうして自分の会社を運営していたのだろうと思われた。やがて看護師もあまり来なくなり、老人ホームの人も来なくなった。「すみませ~ん、すみま~ん」と私に声を掛けることが多くなり、ついには遅いと小言を言うまでになった。
あの人はその後どうなったのだろうか。ワガママが酷くなり、命令口調が強く出て、人の批判ばかりしていた。事業はそれで伸びたのだろうが、老後はその生活態度が通せたのだろうか。リタイア後は老人ホームに入居し、入院先では次第に周囲からも疎まれ、思えば一度も家族が来なかった。夫の後を継いで必死に頑張っても、その性格がそのまま変わらなければ、それはその人にとって如何なものだろうか。
同じ病室に、孫が事務職として働いてる人が入院してきた。お孫さんは良く訪ねてきてはお祖母ちゃんの面倒を見ていた。気の弱そうなお祖母ちゃんで、既に相当弱っているらしく身動きも出来ない状況だった。それでも孫や看護師が来ると、大丈夫だいじょうぶと言っていた。隣で「すみませ~ん」と言ってても、誰もそれを聞こうとはしなかった。
妻が少し元気で大学病院に入院中、小さな子供が居るという男のひとと知り合った。既に余命宣告をされているが、ノンビリと入院治療は出来ないと話してた。定期的に数日の入院で検査と抗がん剤治療を受け、会社勤めを続けてるそうだ。周囲の入院患者も皆その事情を知っていて、とても親切にしていた。
病に負け、体が衰え、自分自身を支える力もなくなると、面白いことにその人の性格はそのまま現れることになるようだ。病人だからと訴えを聞いていても、次第にその人の言動は鼻についてくるものだ。周囲にその影響を与えながら命を終えるとき、その人の苦痛は如何様に感じられるのだろうか。あのワガママな人は、苦痛と共に誰からも相手をされない寂しさを感じるのだろうか。あのお祖母ちゃんは、痛みに対して孫や看護師の温かい言葉に、やわらぐのだろうか。あの幼い子供を遺して余命わずかな男の人は、多くの親切に接して安心して旅立てるのだろうか。

イセ姉はいつも周囲に対して親切だった。もちろん事業が成功して経済的な余裕も有ったのだろうが、誰にも明るく接して優しかった。こちらは古稀にもなったのに「シゲ坊~」とスーパーで掛けられた声を思い出す。一人暮らしは面倒なことばかりだと、愚痴を言っても聞かない振りで明るく話題をずらして笑っていた。体力が落ちて食欲も無くなってからは、子供達が叔父とイセ姉をサポートしていたそうだ。最期に心臓が止まり、一度蘇生したときに叔父に対して「ありがとう」と一言を言って、心肺停止になったそうだ。あの一言を言うために、一度だけ引き返したのかもと最期を看取った人が話していた。
「終活」と言うが、本当の「終活」は自分自身の中に在るのではないか。身の回りの片付けも必要だが、自分自身の生き方を思い返し、最後に自分自身を良き方向へと変え事が本当の「終活」では無いかと思う。最期の言葉として「ありがとう」の一言が言えるように、自分自身の生き方を考えたい。
「ありがとう」その一言が妻から言って欲しかった。「ありがとう」では無く「我慢の一生だった」でも良い。夫婦としての二人の事をどの様に思っていたのか、無言のままに息を引き取り、それが悔やまれる。彼女に取り、自分の実家だけしか頭になかったのかと、悔しささえ湧いてくる。最期の10ヶ月間で、初めて恋愛感情が生まれ、懸命に尽くしてきたのだが・・・
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