古稀・・・

我が家の玄関先に植えられてる「ドウダンツツジ」、紅葉の季節も良いが、春になり若芽が出て、白い小さな花を付けると懐かしい人を思い出す。そして、長くは生きられないと言われながらも、大叔父や祖父を超える年齢まで生き続けてしまった事に、何とも言えない感慨を覚える。

人生で最も尊敬し、一生の指針を教えてくれたのは、小俣の父方の祖父だ。その祖父の一番下の兄弟の大叔父が、このドウダンツツジを庭に植えてくれた。大叔父は戦前に武道家を目指して上京し、嘉納治五郎の弟子になったそうだ。晩年は嘉納治五郎最後の生き残り弟子として、神社の奉納試合では紅白の帯を締めて主審を務めていた。

まだ20代の前半、空手道場に通っていたことがある。集団のスポーツには馴染めず、子供の頃に大叔父の勧めで柔道を試したが長続きせず、高校時代は剣道、卒業してからは空手を始めた。全て長続きはしなかったが、この経験で年に一度か二度程度しか会う機会のなかった大叔父とも、親しく話すことが出来た。

大叔父は痩せて背丈も低く、深い皺の顔はいつもにこにこしてて、常に無口で立ち居振る舞いは飄々とした。戦前の柔道を学んでいた頃、今のスポーツ柔道とはかなり違っていた話も面白かったが、それ以上に面白い話も多かった。

満州国設立当時、満鉄職員として朝鮮半島から満州国、更には中国にも旅行をしていたそうで、誰も知らない話してとし、大叔父は朝鮮語も中国語も話せたそうだ。朝鮮半島での道路整備や鉄道の敷設工事も手伝ったことが有るとも言っていた。いつかは朝鮮半島から中国、そしてインドにまで歩いて旅行したいなどと、あの冒険家スウェン・ヘディンの本を読んでは夢をみていた。

20代の頃に、家業の鍛造や溶接技術を活かして、韓国でのステンレス継手製造工場設立に参加しないかという誘いがあったときには、ぜひ行きたかった。当時の韓国は全く基礎的な技術がなかったので、いつの間にか台湾工場に技術移転になり、裁ち切れとなった。いつかは韓国に行きたいと思っていたのは、大叔父の影響だったのかもしれない。今は相当な嫌韓となってしまったのを知ると、大叔父は何と言うだろうか。あの柔和な微笑みを思い浮かべると、面白いものだ。

戦後まもなくの頃、ある特殊な任務で祖父達に別れの挨拶に来たそうだが、それがどの様な任務だったのかは、とうとう誰も聞くことは無かったようだ。戦後はごく平凡な国鉄職員として勤務し、地元で柔道の普及に努め、家ではドウダンツツジを300鉢以上も盆栽として育てていた。鉢植えのドウダンツツジを庭に植えたのだが、今は大きく育ち春には白い花を咲かせ、秋には見事な紅葉を見せてくれる。大叔父がよく言っていた「毎日を平々凡々に、飽きてしまうような生き方が一番幸せなのかもしれない」・・・、そんなことも思い出す。

あと2週間程度で69歳になるが、思えば今年は数えで70歳、「人生七十古来より稀なり」といわれる歳に成ってしまった。

生きる指針を教えてくれた祖父、人生の波瀾万丈を楽しむ術を教えてくれた大叔父、何があっても自分を守り続けてくれた母親、仕事に頑張り家族と親戚を守った父親、幼い頃に子守役として守り育ててくれた叔母達、大勢の人達を思い出す。多くの人達からの慈しみとご先祖様達の教えは、自分の中でドウダンツツジの花のように、小さいが美しい輝きで多くの花として心の中に褪せずに在る。そして今はこの多くの教えを、自分の子供達には伝えることが出来なかったことが悔やまれる。

人はいつかは死ぬ。苦しいのか痛いのかは分からないが、いつかは呼吸が止まり心臓も止まる。人は死ぬと、空気に成り土に還り水に成り念いだけが留まる、などと聞いた覚えがある。だからこそ、人の命も自然も同じように大切に守らなければならない、とも。この歳に成り、お世話になった多くの人を思い出すとき、仏教で言う死後の世界が有ることを願う。いつか皆の所に行ったときには、今までのお礼を言い、意外と長く生きて面白かったことを話したい。

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