五條天神社・花園稲荷神社・穴稲荷社|台東区上野

令和元年の初日、5月1日に明治神宮を参拝して、上野界隈を久し振りに歩いた。東京国立博物館で、特別展「国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅」を見学して、興奮してしまい、上野公園を散策した。大勢の観光客、特に外国からの観光客が集まって写真を撮っている所に興味をそそられ、一緒について行った。

五條天神社周辺

狭いエリアに神社が寄り添い、外国人から見ると道を下に降りて行く石段が、朱色の鳥居で繋がっていくのが面白いらしい。入り口の所では中国人の団体が交互に写真を撮り、はしゃいでいた。中国人独特な、とにかく旅を楽しもうという精神は凄いものがある。欧州のカップル、たぶんフランス人らしい二人が我慢の限界になったようで、割り込んで石段に進んでいった。その国の独特な国民性が感じられて、こういう所は好きだ。

ここ、花園稲荷神社と五條天神社はパワースポットだと、後で知った。確かにそう言われれば、そのような独特な空気感があった。

花園稲荷神社

カップルに感謝しつつ石の鳥居をくぐり、朱色の明神鳥居と言うのか稲荷鳥居というのか、その参道石段を下っていった。

キータン
ジイちゃん、お稲荷さんの参道には、どうして赤い鳥居があるのかな。
恕衛門
元々の神社の鳥居は朱色ではなかったようだね。本来の神道では白木の鳥居だったものが、仏教伝来と共に奈良時代あたりから「神仏習合」が始まり、仏教で魔除けの赤い色が使われるようになったらしい。鳥居は俗界と離れる結界の印で、混じりけの無い清浄な白木が本来の姿らしいよ。

石段の先に花園稲荷神社がある。周囲から隔絶されたような空間で、朱色の連続した鳥居と緑豊かな木々に囲まれて、そのコントラストが何となく異空間的な・・・良いねえ。恋愛成就・夫婦和合・商売繁盛の御利益があるそうだ。

キータン
由来とか御祭神とか、御利益はなあに。何となく不思議空間だね。
恕衛門
御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)だね。福徳神社と同じだよ。古くからこの地にあって「忍岡稲荷」、または穴稲荷といわれていたそうだ。寛永寺拡張で廃絶されていたのを、天海大僧正の弟子の晃海僧正が夢でお告げを受け、住む所を追われた狐のためにお社を建てたそうだ。親子とか家族や友人などの縁を大切にする、また恋愛成就のパワースポットでもあるそうだよ。

五條天神社

花園稲荷神社と向かい合うように、少し玉石を敷いた庭の先に五條天神社がある。こちらの五條天神社の方は、木々に囲まれた花園稲荷神社と比べ、広々とした様に感じる。狭い区域なのに、その作りが全く違うせいなのかもしれない。健康長寿・学業成就などの御利益があるそうだ。

五條天神社由来
御祭神な薬祖神社と同じ、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)。相殿は寛永18年に菅原道真公を合祀した。由来書きには「第十二代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神の大神に御加護を頂いた事を感謝なされて、この地に両神をおまつりなされました。」とある。前日に訪ねた福徳神社と薬祖神社の関係に似てて面白い。

五條天神社社務所横の石段を登ると、動物園通りに出られる。

穴稲荷社

穴稲荷社は花園稲荷神社と五條天神社が向き合ってるとすると、その中間点の横にある。扉を開けて中に入るのだが、それが何とも別世界に入るようで面白い。中には狐が祀られている。

穴稲荷社由来
寛永寺創建と敷地の整備拡張により、元々この地に住み着いていた狐が住み処を失い、前述した晃海僧正が夢に見て、「穴稲荷神社」を作った。江戸から明治に移るとき、この地で彰義隊と西郷隆盛率いる官軍が戦った。その時に「穴稲荷神社」が破壊され、再建して花園稲荷神社となった。この旧社殿はチョットした洞窟のようで、神秘さも漂うパワースポットとして有名、らしい。

動物園通りから見る

動物園通りから見る五條天神社の石鳥居も、鹿島鳥居の力強い中に、周辺の深い樹木とマッチした美しさを感じた。

御朱印

五條天神社御朱印

花園稲荷神社御朱印

さすが令和元年5月1日、それぞれの社務所には数人が御朱印を求めて並んでいた。極めて簡素な御朱印だが、これが本来の御朱印だと思う。仏教寺院での御朱印は、いわゆる納経の時にその印として頂くものだ。神社の場合は写経や経典の納経がないので、参拝の印として朱印を頂く。今でいう記念スタンプ的なもので、朱印と日にちだけが本来だと思う。納経帳の記載も、写経を納めた印として、寺院名と日付を書くものだったようだ。

なんというか、特別御朱印とか絵画的な御朱印など、サービス精神が旺盛なものは今の御朱印ブームが切っ掛けかもしれない。まるでスタンプラリー的な御朱印集めは、如何なものかと思うのだが。

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