
平成から令和に掛けて、改めて明治神宮と靖国神社へ参拝しようと考えた。会社も初めての10連休ということで、改元をまたいでの参拝計画をした。その事を会社で話し、つい興に乗って「福徳神社」は宝くじに御利益がある、などと言ってしまったものだから、此処で御守りを拝受することになってしまった。
福徳神社
〒103-0022 東京都中央区日本橋室町2-4-14
電話 03-3276-3550

主祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
相殿(あいどの)
天穂日命(あめのほひのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
少名彦名命(すくなひこなのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
三穂津媛命(みほつひめのみこと)


倉稲魂命(うかのみたまのみこと):『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。性別不明だが、女神とされている。名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神。伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(稲穂を束ねた荷、豊穣の意味)として広く信仰されている。
天穂日命(あめのほひのみこと):天照大神の子供。天孫降臨の前に、大国主命に国譲りを伝えるために赴いたが、大国主命に味方し祭主となった。
大己貴命(おおなむちのみこと):大国主命の別名。須佐之男命の娘である須勢理毘売命との婚姻の後に少名彦名命と協力して葦原中国の国作りを完成させる。後に天照大神により「国譲り」後に、幽冥界(ゆうめいかい)の主、幽事(ゆうじ:見えない神の世界)の主宰者となった。
少名彦名命(すくなひこなのみこと):大己貴命と協力して、葦原中国の国作りに尽くした。穀霊・知識・酒造・医薬・温泉の神として信仰された。
事代主命(ことしろぬしのみこと):大国主命の子供。天照大神より国譲りを伝えられたときに、大国主命は事代主命の相談をした。多くの兄弟達と戦を繰り返し、多くの人に苦しみを与えるならば天照大神に国の運営と安寧を任せようと、国譲りを受け入れた。
三穂津媛命(みほつひめのみこと):高皇産霊尊(たかみむすびのみこと:造化三神の一神。天照大神と共に高天原を主宰する)の娘で、大国主神の后。国譲りの後に幽界にお隠れになられた後、高皇産霊尊より「私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔され妻とした。神話の中にはほとんど出てこない神様。国譲り後に幽冥界に行き、その事を恨んで天照大神に背かないことの証として、高皇産霊尊の娘である三穂津媛命を娶った形になってる。
こんな大都会の一角に福徳神社と薬祖神社が祀られ、小さな公園を作っている。
江戸時代前後に合祀
太田道灌(おおたどうかん)
弁財天(べんざいてん)
徳川家康
福徳神社の由緒
創祀された時期は不明だが、貞観年間(清和天皇・859~876年)には既に鎮座されていたという。武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号とされたそうです。
源義家が深く崇敬したようで、その武勇を尊び太田道灌も崇敬していたようです。後に合祀し、その兜・矢・鏃などが奉納されました。
天正18年(1590年)8月1日に入府した徳川家康公は、同じ8月に初めて参詣され、その後参詣は数度に及びました。徳川家康も武勇の源義家を尊敬し、義家を自身の祖先と考えていたようです。
別名芽吹神社の由来
さらに、二代将軍秀忠公は慶長19年(1614)正月8日に参詣し「福徳とはまことにめでたい神号である」と賞賛したそうです。この時に椚(くぬぎ)の皮付きの鳥居に、若芽の萌え出でたのをご覧になり、別名を「芽吹神社」とされました。
元和5年(1619年)2月に江戸城内の弁天宮を合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納、さらに「社地縄張を三百三十坪」と定められました。

富籤との関わり
福徳神社(芽吹稲荷)は、たびたび幕府より勧化を許可されています。勧化とは寺社の造営等の費用捻出のための、幕府公認の富くじ「御免富」です。幕府は私的富くじ興行は厳しく禁じていますが、由緒ある寺社に限り、堂舎修復費捻出のための富くじ興行を公認しました。
社号「福徳」に加えて、秀忠により江戸城から合祀された弁財天が福財神として庶民の注目を集め、人気を博したようです。
御朱印と御守り
何となく墨が薄いような気がするけど、、、平成の終わりで忙しかったのかな。

薬祖神社

薬祖神社の御祭神は、大己貴命(おおなむじのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱で、御神徳は無病長寿や病気平癒などの健康増進です。

江戸時代になり、日本橋を中心とした町割りが進められ、日本橋の本町界隈には薬種問屋が多かったようです。医薬の神様であり健康の神様の少彦名命と薬種問屋ですから、この関わりは大きいです。

玉垣(たまがき)の社名を見ても、「東京薬事協会」「薬祖神奉賛会」「太田胃散」「龍角散」「浅田飴」「大塚製薬」「田辺製薬」「小野薬品」などなどと、有名な製薬会社が連なってます。
都会の中の小さな神社の杜は、今もここに住む人達の憩いの場になっているようです。
なお、薬祖神社と福徳神社は別です。薬祖神社は公園の一角に祀られ、製薬会社の尊崇を集めているようですが、社務所等はないようです。
参拝して
江戸時代、戦後も日本の中心として、日本経済と商業を牽引してきたこの地に、小さな公園のように神社の杜が守られてきたことに驚いた。そこに日本人としての自然界に対する畏敬の念を、改めて強く感じた。
人を守り育てるのは自然界との関わりであり、それを守るのが神仏の働き、阻害するのが悪鬼羅刹・煩悩と私利私欲の欲望かもしれない。
古来より日本民族は一万年以上にも亘る縄文文化の中で、自然界に寄り添い、自然からの恵みを大切にし、互いに助け合うという共助の精神が深く根付いていた。縄文文化は未開発な遅れた文化ではなく、日本国内での交易も活発に行われていたようだ。
いつの間にか大陸文化が伝わり、殺戮武器の使用により多くの村落が集中されてきた。その中で次第に自然を尊崇するという思想も消えかけてきた。世界と共に発展する文化経済のうねりに負けることなく、現在の万世一系の天皇を象徴として、このように都会の中に置いても自然界の象徴とも思われる神社とその杜が守り残されてることに、深い感銘を覚えた。
日本人としてこの地に生を受け、日本人として日本に暮らせることに深く感謝する。