鶏足寺と大雄院|面白歴史

小俣城「暗闇谷の戦」、上杉謙信2,000VS小俣勢100、小俣勢の大勝。祖父から聞いた鶏足寺と大雄院と我が家との関係は、まだ幼い頃に聞いたご先祖様達の話しの中でも、特に面白く、ワクワクした。それでいて自然も人の命も大事にしなければならないという、大事な事も教えられた。古神道兵法、などというものなど無いが、古神道の大事な一部も学んだ。

佛手山金剛王院鷄足寺

真言宗豊山派本山

栃木県足利市小俣町2748番地  Tel.0284-62-0276

鷄足寺の歴史と伝説

継体天皇の御代、丁亥(ひのとい:507年)の年4月8日、小俣の山に錦の雲がかかり、鳴動して山頂に大岩が現れた。人々は鳴動したので、この山を「鳴動山」とか「鳴山(なるやま)」と呼ぶようになった。この「鳴山」が今の石尊山のこと。この時に鳴動と共に表れたのは石仏だが、まだ正式な仏教伝来も無く、僧侶も居なかった時代なので、村人達はこれが何か分からなかったという。

最初の鳴動から301年後、大同3年(808年)2月15日、再び鳴動山(石尊山)が鳴動を始めた。鳴動は50日間も続き、小野寺(現岩舟町)の大慈寺で修行中の円仁(この時15歳、後の慈覚大師)が確かめに来た。この時に険しい岩に阻まれると、猿が集まり猿橋を作ったといいます。猿橋を渡って石仏に着くと、その前の大岩が鳴動し脅して邪魔をします。今度は猿たちが蔦で縄を作り、大岩を縛り山の下に転がり落とした。天空から「天上天下唯我独尊」と美しい声が響き、眼前の岩には「石仏世尊愛愍授仏教手抜済令出」の文字が浮かび出てきた。

円仁:後の慈覚大師
出自は下野国の壬生氏。生誕地は栃木県の岩舟町あるいは佐野市越名または壬生町といわれてる。延暦13年(794年)生 – 貞観6年1月14日(864年2月24日)没。9歳で岩舟町の大慈寺に出家し、15歳で比叡山に登り天台座主伝教大師に師事し、21歳で言試に合格して得度する。遣唐使として短期留学するが、9年半という規則違反での長期滞在で学んだ。後に天台宗比叡山延暦寺第三代座主となり、慈覚大師と仰がれる。

円仁はその文字を拝書し、比叡山に登り師の伝教大師に伝えます。大師から事の詳細を聞いた平城天皇は調査をし、翌大同4年(809年)4月8日、勅命により奈良東大寺の定恵上人が小俣に下向された。下野の押領使藤原中将を施主とし、石仏を勧請、本尊を釈迦如来として一乗山世尊寺を開いた。

仁寿元年(851年)比叡山から慈覚大師が下向され、かつて見た石仏の文字は経文であることから、山号を仏手山、院号を金剛王院と名付けた。この事から後の鷄足寺を定恵上人の開山、慈覚大師の建立といわれてる

天慶2年(939年)12月25日、平将門が乱を起こします。朱雀天皇の命により翌天慶3年2月1日、下野の押領使藤原秀郷が3000余騎で攻めますが苦戦が続き、世尊寺の常祐法印に将門調伏の勅命が下ります。五大明王の調伏壇で、土の将門の首を供えて昼夜通して祈り続け、満願日の未明に三本足の鶏が血塗れの将門の首の上で鳴いてる夢を見て、目覚めると土の首に鶏の足跡が三ヵ所付いていた。調伏の祈りが叶い将門は破れ、三本足の鶏の霊験から、勅命により鶏足寺と改めた

鷄足寺御朱印

鶏足寺

境内を歩く

歴史のある、如何にも古刹の雰囲気がある。本堂の前で読経し、御朱印を頂く。訪れてる人は誰もなく、庫裡も鍵が掛けられていた。御朱印を頂くと、直ぐに鍵を掛ける音がした。鶏足寺や恵性院は一族の菩提寺であり、幼いときには住職を訪ねては多くの事を教えられた。その懐かしい想い出があるだけに、何となく寂しさを感じた。

山を切り開いた広い境内を歩くと、焔魔堂や護摩堂をはじめ山門や赤門など、歴史を感じる。何となく違和感を感じたのが、布袋様や七福神が置かれていた事だ。体の弱かった自分は、爺や子守のネエと散歩に来たり、その時には住職とも楽しく話をしたものだ。よく手入れをされていた境内は、幼い子供にも荘厳さを感じていた。もちろん此処だけでは無いが、最近の石屋の高度機械技術で彫られたお地蔵様や七福神が多いと、何となく寂しさを感じてしまう。

廣澤山大雄院(こうたくざん だいゆういん)

曹洞宗

大雄院本堂

群馬県桐生市広沢町3丁目3580番地
TEL.0277-52-7781

大雄院の歴史

HPには正安2年(1300年)足利太郎矢田判官源義清二男廣澤判官義実、廣澤山大王院父義清菩提のため建立とある。天正11年(1583年)藤生紀伊守の建立、日栄春朔和尚の開山とある。

大雄院は桐生市内でも400年を超える歴史のある古刹であり、群馬県指定重要文化財「大雄院刺繍涅槃図」でも有名。広い境内は綺麗に整備され、自由に散策も出来、御住職様やご家族の皆様も親切で御朱印も頂ける。

群馬県指定重要文化財

大雄院の歴史
大雄院は、新田金山城主由良家に関係する古書類から推定して、天正11年(1583)由良家家臣桐生城代藤生紀伊守の建立によると言える。開山は日栄春朔和尚による。
その後、元禄15年壬年(1705)5月、大雄院梵鐘が鋳造され寄進された。その他檀家より土地・金銭などいろいろな寄進奉納があった。
(中略)
隆盛時には次の末寺が存在したと言われている。
宝殊院(現在広沢町四丁目) 、祥雲寺(境野町六丁目)、喜応寺(不明)、 漸雙寺(寺跡所在地広沢町三丁目一七七七 禅双寺)、 常林寺(寺跡所在地広沢町三丁目三五八五)、 源光寺(不明) 、重蔵院(不明)
(略)
出典:大雄院の歴史

大雄院御朱印

大雄院

境内を歩く

金剛力士像

金剛力士像

観音堂

母方の菩提寺であり、祖母の葬儀以来数十年も来る機会を失っていた。本堂前で読経し、庫裡で御朱印を頂く。受付の隣の部屋が覗けてしまい、仏壇にかつての桐生商業高校の教師をしていた、先代御住職の遺影が見えた。高校時代に授業を受けた事は無かったが、強く印象に残ってる先生でもあった。住職と聞けば、即納得をしてしまうほど風貌と話し方と、全てが大寺院の御住職様との雰囲気があった。

蓮池と三重の塔

本堂前から墓所へ

鐘楼台

境内は広く手入れも行き届き、一面蓮の広い池や五重塔、見事な山門や鐘楼台など、歩いて行くと景色が様々に変わり飽きてこない。ゴ~~ン、ゴ~ンと聞こえたので見ると、近所の子供が鐘楼台で遊んでいた。大きな綺麗な境内で子供達も安全に自由に遊べ、これが仏教道場の本来の姿なのかもしれない。

小俣城暗闇谷の戦場

戦国時代、新田の由良氏、足利の長尾氏、小俣の渋川氏は連合を組んでいた。小俣は隣接する桐生氏・膳氏・佐野氏・里見氏などと領地争いもあった。更に上杉や北条などの巨大勢力にも睨まれていた。

古戦場案内板

ここからは史実かどうかは不明ですが・・・

3度も小俣城は大きな戦いをしたが、4度目は元亀3年(1572年)4月、上杉氏は膳氏と共に小俣城へ多勢を以て攻めてきた。上杉勢2000対小俣勢100の壮絶な戦いだったが、兵法から見ると実に見事な「狭隘地へ誘導」の戦法であったと思う。小俣勢には死者は無く、上杉勢は膳氏勢の全滅と上杉勢の大半に死傷者が出た。その後、小俣城は上杉からの攻撃は無かった。

小俣城の石垣
小俣城は石垣のあった山城です。日本の城の中でも、この石を組み合わせ石垣はかなり初期の、画期的な事だったそうです。これは石井尊空の設計であったそうで、石井尊空は建築に関しての知識があったようです。

桐生カルタ

キータン
大雄院の創建は天正11年(1583年)であり、暗闇谷の戦いは元亀3年(1572年)4月だから、話が違うんじゃあないの。

上杉勢は本気で小俣城を落とす積もりだったようだ。前橋の大庄屋船戸氏に道案内をさせて、山伝いに今の広沢、大雄院に陣を取った

キータン
船戸氏の直系末裔の娘と結婚したのが、大川家末裔の叔父だった。今は亡き叔父も家の歴史が好きで、色々と調べていたらしく、面白い事だと話していた。

上杉の兵馬を洗うために渡良瀬川に来たところ、対岸に見るからに農夫姿の男が居た。この男は大川土佐守の子供(実はご先祖様の一人)で、農耕馬と河原に遊びに来ていた。上杉の兵は脅すために川を渡ってきたのを見て、慌てて馬に跨がったが、馬は足をくじいて転がってしまった。兵達はその姿を見て大笑いしたそうだ。ご先祖さんは馬を背負って駆け戻り、上杉勢が来てる事を告げた。

小俣城では広沢の上杉勢の勢力を知り、大半の意見が不戦退去・城明け渡しだった。長野から軍師として招かれた家老の石井尊空と、大川土佐守親子は戦いを主張した。特に大川の子供の方が河原で落馬し、笑われた事で怒っていたそうだ。

尊空と大川親子は兵法通りの戦いを画策した。いわゆる「狭隘地」への誘導と、崖の上下の高低差を利用した攻撃法だ。

かつての古戦場

恕衛門
古神道で教えられた中で、「中の兵法」とか『六韜』とかで聞いた事がある。

伝わる話では、小俣勢100名は横に広がり、上杉勢2000が近づくと退き、戦う姿勢を見せてはまた退き、次第に鶏足寺の北西部の谷に退いた。わずか100程度の兵力を甘く見て、膳氏を先頭に上杉勢が迫ってきた。ついに谷の最奧に追い詰められた大川土佐守は、天に向かって「南無八幡」と谷に響き渡る大きな声で祈ったそうだ。

するとその声が天に届き、とつぜん空が曇り、風が吹き荒れ、目も開けられない状況になり、両者共に攻める事も逃げる事も出来なくなった。大風と共に天からは折れた大木や多くの石や大岩が降り、多くの上杉勢は生き埋めになってしまった。後陣の兵はその惨状を見て、広沢まで逃げ帰り、上杉軍は越後へと撤退した。以後、小俣城は上杉軍に攻められる事は無かった。

すごい神憑り的な「神風」の光景を想像するが、これは兵法の初歩の戦法だと聞いた。多勢は狭隘の地では細く長くなる。兵力は総合力では無力となり、個の力も狭い土地では充分に出せない。しかも谷なので弓や槍や刀などの威力を大きく削がれる。太い木や石や岩は、高い谷の上から落とすと大変な威力を持つ。短期間に武器は用意できないので、谷の上に石や大木を切って用意してたそうだ。

まともに戦えば必ず負けてしまう。武器も兵力も桁違いに違いすぎる。なので直ぐに用意できる武器の石や砂を谷の上に用意し、狭い所に誘導したそうだ。今はゴルフ場になってしまったが、子供の頃に爺と行ったときに、確かに狭い谷のような地形だった。大きな岩もあり、足場も悪く、枯れ葉も積もり、大きな木々が被さるようで暗かった。

この谷で石の下を流れる水の音や、木々の伸びる姿や、枯れ葉の大切さや、大小の虫達の生き方が、爺からの教えの教材にもなった。物心ついてから今に至るまでの生き方は、全てこの頃に祖父から学んだ事だ。幼い頃に学んだ事は、生涯の生きる支えとなるようだ。今も祖父への感謝と、祖父の姿が鮮明に浮かぶ。祖父は生涯の教導の師である。

米沢という地名
小俣周辺の地名には、上杉との戦いで出来たものもあります。「米沢」というのは、小俣城の菱町側の地名です。3回目に上杉勢が来たときに、鶏足寺側からの攻撃を受けて食料が絶たれ、菱側からの補給路も断とうと桐生氏勢が待機していました。小俣氏勢は城に籠城し、水も尽きてしまいました。この時に白くついた米を、城の横に小川があるように見せ、米をサラサラと流していたそうです。これを見て、水も食料もあると思い、この時は引き上げていったといいます。白く水のように見え、水の音のように聞こえた見張り台のあった所を「米沢」というように成ったそうです。

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