鑁阿寺|栃木県足利市

鎌倉時代、建久7年(1196年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来(だいにちにょらい)を祀る。
約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されている。またこの事から「史跡足利氏宅跡」として、大正10年3月に、国の史跡に指定されており、現在では「日本の名城百選」にもなっている。

国宝 鑁阿寺HPより 

鑁阿寺は足利氏の居館(きょかん)跡

下野国足利郡は、藤原秀郷の子孫達が下野国に土着し、藤原成行から足利氏を名乗った。その後、足利成綱・足利家綱と三代が続くが、後に源義国が領主となった。

義国の子供の源義重は新田氏の祖になり、新田義重と名乗った。弟の義康は足利荘を受け継ぎ、足利義康と名乗り、源姓足利市の祖となった。義康の子、足利義兼(源姓足利氏2代)の父と母の両者とも頼朝に近い親戚筋でもある。頼朝の伊豆の国での挙兵にはそれに呼応し、早い時期から頼朝に追従して挙兵し、奥州藤原氏との戦いから残党の追討使として平定した。

鑁阿寺本堂

源頼朝の正室北条政子の妹・時子と結婚した事で、幕府内での地位を高めていった。やがて北条氏により頼朝の近親一族が粛正される中、義兼は出家して地位の低下を受けながらも御家人として生き延びてきた。

足利義兼の出家後、邸内に持仏堂を建てて大日如来を祀ったのが始まりです。3代足利義氏が堂宇伽藍を整備し、一族の氏寺とした。

源姓足利氏8代目、足利尊氏は鎌倉幕府を滅ぼし征夷大将軍として、足利幕府を開きました。

足利尊氏像

キータン
足利尊氏は、ほとんど足利には居なかったのでは・・・。鎌倉幕府の御家人として、鎌倉で過ごしていた・・・要するに謀反を起こさないように人質かな。

鑁阿寺の御朱印

国宝本堂内陣左に、聖観音座像が御安置されています。非公開とされています。足利氏守り本尊の大日如来座像も非公開です。

鑁阿寺大日如来御朱印

鑁阿寺聖観音御朱印

鑁阿寺周辺の堀

鑁阿寺正面堀

鑁阿寺楼門(山門)

楼門。足利幕府十三代将軍足利義輝の再建。両側の仁王像は桃山時代の作。国宝鑁阿寺HPより

蛭子堂

鑁阿寺智願寺殿御霊屋(蛭子堂)の伝説
義兼の妻時子(頼朝の正室政子の妹)が妊娠し、義兼は忠綱との不義を疑った。次第に腹が膨らみ、時子は自害し、自らの腹を割いて調べるように言い残した。腹を割くと、蛭が繁殖していたとの事。実は花見の時に、次女が生水を持ってきたのが原因だったのでしょう。

今はこの智願寺殿御霊屋(ちがんじでんおたまや)にお参りすると、安産になるといわれています。

御霊屋(赤御堂)

御霊屋

御霊屋説明板

足利義国・義康の墓

11代将軍徳川家斉により寄進された。源氏の祖を祀り足利将軍15代の彫像が祀られていたそうだ。本殿の後ろには、足利氏の祖義国公・義康公の墓がある。

まだ幼い頃、祖父に付いてこの墓の前で手を合わせた。何かのお祭り、鑁阿寺の行事だったのだろうか、多くの屋台が出ていて、甘い菓子や棒の先に糸で付いた鳥のオモチャを買ってもらった。

この墓の前で、毎回わが大川一族の歴史を教えられたものだった。今は墓前まで近づく事は出来ない。

ところで、実際の義国公の墓はここでは無い。太田市にある義国神社ではないかといわれている。祖父はその事を知っていたのだろうか。いつか祖父と会えるときが来たら、その事も聞いてみたい。祖父と同年齢になった自分を見て、何と言うだろうか。

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