伊香保温泉というと、あの独特な茶褐色の温泉を思い浮かぶでしょう。今は茶褐色の「黄金の湯」だけでは無くメタケイ酸の「白銀の湯」という美人の湯もあります。その歴史は長く、万葉の時代から知れ渡っていたようです。この温泉地は武田信玄の隠し湯としても有名であり、長篠の戦い(天正3年5月21日)以後、敗れた武士団の保養と治療のために、日本で初めての計画的な湯治場としての整備も行われ、その姿を現在にまで残しています。

万葉集に見る伊香保温泉
伊香保温泉は、2000年くらい前から温泉地としての存在は知られていてたと想像できます。万葉集には既に温泉地としてその地名が歌われています。縄文・弥生時代の集落遺跡は残っていないと言う事ですが、その理由としてこの地がかなりの寒冷地だったので、人は定住しなかったと考えられています。しかし更に標高の高い万座にも弥生土器が出ているので、伊香保ほど景観も良くて大量の温泉も湧き出していれば、当然定住はしなくても、人々が集ったと思います。
7世紀後半から8世紀後半に掛けて編纂されたとする『万葉集』の巻14の中に、伊香保が9首ほど詠われています。伊香保温泉の各所に石碑が建てられています。探すのも面白いですね。なお、伊香保嶺(いかほろ)とは榛名山のことで、伊香保沼(いかほぬま)は榛名湖のことだそうです。
伊香保ろに 沿ひの榛原 ねもころに 奥をなかねそ まさかしよかば(巻14-3410)
伊香保ろの 夜左可(やさか)のゐでに 立つ虹の 現はろまでも さ寝をさ寝てば(巻14-3414)
上つ毛野 伊香保の沼に 植ゑ小水葱 かく恋ひむとや 種求めけむ(巻14-3415)
伊香保せよ 奈可中次下 思ひどろ くまこそしつと 忘れせなふも(巻14-3419)
伊香保嶺に 雷な鳴りそね 我が上には 故はなけども 子らによりてぞ(巻14-3421)
伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありと言へど 我が恋のみし 時なかりけり(巻14-3422)
上つ毛野 伊香保の嶺ろに 降ろ雪の 行き過ぎかてぬ 妹が家のあたり(巻14-3423)
伊香保ろの 沿ひの榛原 我が衣に 着きよらしもよ ひたへと思へば(巻14-3435)
伊香保の温泉に好きな女性と来たのでしょうか、それとも伊香保には素晴らしい女性が待っていたのでしょうか。あるいは、実際にはモテない男の単なる妄想なのか・・・。
石段上の伊香保神社
伊香保の中世期(901~1428)、この辺りは伊香保神社の神領地であったようです。伊香保神社というのは、伊香保の石段を登り切った所にあります。伊香保神社は天長2年(825)創建です。大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られています。
古くから国作りのこの二神が祀られている所は、治療目的の温泉が湧いている所が多いようです。
大己貴命は大国主命の若い頃の名前と言われています。少彦名命と共に葦原中國(あしはらのなかつくに)作りに貢献した神様であり、医療に関しての霊験あらたかな事から、二神合わせて「薬師菩薩名神」とも呼ばれています。この伊香保神社は温泉の神様と共に、医療・安産・縁結びに霊験があるそうです。
大己貴命と少彦名命の両神は、国作りと民衆救済のために全国を巡り、多くの療養泉を見つけた・・・のかな、温泉地で祀られてる事が多いようです。
山の斜面を利用した配湯法の計画的湯治場
足利時代になり、関東管領上杉が所領するようになりました。山内上杉氏は関東公方の執事(関東管領)として、鎌倉の山内に居館を置き、上野国(こうずけのくに)を拠点として、関東一円を管理しました。上杉宗家として栄えた山内上杉家は、やがて同族上杉家の内紛で衰え、上野国を離れ越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、長尾に属して命脈を保ちました。
中世期の伊香保は、上杉・武田・北条とめまぐるしく統治者が変わりました。その中で現在のような石段が整備され、湯治場としての形が出来たのは、「長篠の戦い」(天正3年5月21日:1575年6月29日)で破れた武田の武士団の為の保養所に使う為だったようです。
榛名山の北斜面、標高約750メートルに立地する上州の名湯伊香保温泉は、その起源は明らかではない。しかし、『仁泉亭紀』や『伊香保誌』によると、1496(文明18)年に堯恵上人、文亀年間(1501~4)に連歌師宗祇が来湯して、病いによく効くことを伝えたと述べられている。中世期、源泉地の近くに土豪の千明氏、伊香保神社神官の岸氏が居を構えて村を支配していた。天正年間に木暮下総守が領主武田氏の没後、伊香保温泉の支配を命ぜられて一族を率いて入り、千明、岸の両氏に大島、望月(永井)、後閑の諸氏を加えて騎馬6騎、足軽30人をかかえて軍役を努めた。1576(天正4)年に湯元より現在地に移り、これらの郷士達は土着して温泉宿を経営し、今日の基礎を築いた。1582(天正10)年の臼井城主長尾輝景より木暮下総守への定をみると、温泉、土地、運上金などの村支配を武田勝頼の時より引き続いて任せれていたことがわかる。
『新版 日本の温泉地』山村順次著 より引用
天正4年(1576年)に、源泉を流す「湯桶」を納めた大堰を、高低差を利用して石段を築き、有力郷士7軒の「大家」に配当して、計画的な温泉地を築きました。現在は整備された石段365段となっていますが、その配湯方法は今も昔の姿をとどめています。

天正18年(1590)徳川氏の所領となり、安中領(井伊氏領)岩鼻氏代官所の支配下に入ります。土地と温泉は大家(庄屋)14軒が所有し、温泉入浴のための施設管理と経営を兼業してきました。江戸中期、源泉の管理は十二支に準えて、12軒の大家が年番で名主や関所役人を務めていたそうです。今はその名残として、石段に十二支のプレートがはめ込まれています。

伊香保の温泉
伊香保の温泉というと、茶褐色の「黄金の湯」(硫酸塩泉)で知られている。毎分4000Lという源泉も、湧出時は無色透明だが空気中の酸素に触れて茶褐色に変わります。効能は神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・切り傷・慢性皮膚病等です。高温ではありませんが、ジックリと入ると「温泉だぁ~」と感じます。

戦後の観光ブームに乗って旅館が増えましたが、それに応じて湧出量は増える訳ではなく、旅館全てに温泉を配給する必要が出てきました。1996年、新たに無色透明の「メタ珪酸単純泉」いわゆる「白銀の湯」が掘られ、「黄金の湯」が回らない旅館に配られています。効能は、病後の体力回復・疲労回復・健康増進です。
2004年、白骨温泉の偽装された天然温泉表示問題から飛び火して、各地の温泉地にも同様な問題が発覚しました。群馬県下でも水上・四万・伊香保・薮塚等で次々に偽表示が見つかりました。
伊香保温泉偽表示問題は、温泉客の減少傾向にある伊香保にとっても大問題であったようです。旧伊香保町の時に、この問題を重く受け止め、明確な表示が行われ、インターネットでも公表されています。現在はほとんどの旅館・ホテルに本物の天然温泉が使われ、伊香保挙げて名誉挽回に勤めています。
伊香保温泉と文化
伊香保温泉と文人というと、徳富蘆花と竹下夢二が挙げられます。
徳富蘆花は明治元年に熊本に生まれた文豪です。作家活動の合間に、伊香保の湯をこよなく愛し、長期逗留もされたようです。代表作の「不如帰」(ほととぎす)の書き出しも伊香保から始まっています。伊香保を愛した文豪を称え、平成元年に「徳富蘆花記念文学館」を創設しました。小さな建物ですが、蘆花が使用した旅館が移築されたそうで、昔の風情を感じさせる、何とも懐かしさを感じる建物です。
竹下夢二は明治17年に岡山県に生まれ、明治末期から昭和初期にかけて絵画などにその才能を発揮させ、独特の大正ロマンの世界を築き上げました。晩年の昭和5年に、産業振興を目的に「榛名山美術研究所」構想を発表し、榛名山荘にアトリエを建設しました。翌年に渡米し、8年に帰国するも10年に亡くなりました。その夢二を顕彰する為に「夢二記念館」が設立されました。


先ずは「黄金の湯」について。
泉質は「カルシウム・ナトリウム-硫酸塩・炭酸水素塩・塩化物温泉(中性低張性温泉)」いわゆる「硫酸塩泉」で、一般的な温泉としての効能の他、切り傷・火傷・動脈硬化症・慢性皮膚病に効果が有ります。pH6.4・残存物質1.28g/kg・湧出温度40℃~43℃・湧出量約4000リットル。塩化物温泉なので良く温まります。茶色になるのは第2鉄が8.28mg含まれているからです。
「白銀の湯」は試掘を繰り返して、19968(平成8)年に掘削されました。不確かですが、3本の井戸で汲み上げ集中管理配湯されています。残存物質・温度共に温泉とは規定されませんが、メタケイ酸が規定値以上なので「メタケイ酸の項目で温泉法第二条別表に定義される温泉に該当する」として表記されています。温泉の定義も参考にして。メタケイ酸は皮膚の代謝を高め、美人の湯として有名です。