3日には兄弟や姪達が集まり、恒例となったお正月の顔見せがあった。2日に来て泊まり、用意などの手伝いをしてくれた娘と子供達が帰り、いつもの静かな日々となった。

お正月の集まりには、最近は何も作らなくなった。昨年は2日から近くのスーパーが初売りになって、2日の集まりになった。今年は3日なので、何故かそれが分かっていたようで、3日に来るとの連絡があった。
恒例になったのだが、皆がそれぞれ飲み物と総菜を持ってくる。去年は全員が持ち寄った物がかぶっていたが、今年は見事に違っていた。それぞれのお土産の交換会や、珍しい菓子類を持ち寄ったが、我が家の物は娘が持って行ったようで、ほとんど残ってなかった。まあ、去年は半分以上も一人では食べきれずに、会社に持っていき皆で食べた事を思えば、娘が持ち帰ればそれはそれで良い。
で、今年初めてとなるお正月らしい料理「お雑煮」を作った。一人に成ると、子供の頃の味を思い出す。最も懐かしい味は、お雑煮の味かも知れない。時間は掛かるが、母親の味というか、毎年食べていた味を思い出す。これを食べて初めて新年を感じる。
60歳頃までは若い気分でいた。60歳は意外と年寄りではないと感じていた。近所で一人暮らしの高齢者に会うと、どの様に毎日を過ごしているのかと心配をしたものだ。
68歳になり、今年は5月で69歳に成る。「死」というものは身近に実感できるが、「老いた」という実感は感じられない。独居老人は周囲から見るほど孤独でも、不自由な暮らしでも無い。これだけは独居老人に成らなければ、理解できないかもしれない。
食べたい物があれば、いつでも作って食べられるし、移動手段さえあれば外食を何処へでも行って楽しめる。家族が居たり、子供達が居れば、これほど自由な行動は出来ないだろう。
趣味も自由に楽しめる。温泉でも寺院仏閣、何処へでも行ける。予定無し、目的無しの旅行も出来る。一昨年は様々な温泉関係の講習会を受けた。昨年はその延長として、観音霊場や縁ある寺院の御朱印をいただく小旅行も出来た。
体調は・・・というと、良いとは言えないかもしれない。時々後頭部に頭痛が起きる。こういうのって脳梗塞の前兆かもしれないし、医師の言う後頭部筋肉の緊張による痛みかもしれない。アキレス腱周囲炎もある。腰痛も起こる事がある。
体調不良になり、倒れても誰にも気付かれない。それが大変では、と思われてるが、それが良いのかもしれない。好きな事をして、ある日倒れてそのままサヨナラ、それはそれで理想的な生き方だ。誤解を恐れずに言えば、不自由な体で生き長らえたくは無い。ベッドで寝たままで時間を過ごしたくは無い。
子供の頃には、この子は10歳までの命とか言われてきた。それを過ぎれば20歳までとか・・・。もう、それなりの覚悟は小さい頃から出来ていたのかもしれない。そのためか人と交わり群れたりするよりも、一人で過ごす時間が好きだった。
いま当に老境に至り、仕事の重責から離れ、家庭からも解放され、真の自由を得た思いがする。無理に生きようとせず、無理に自死の必要も無い。これはこの歳に成り、初めて味わえる感想だ。
それでもなお、やはり36年間という時間は長かったのだろう、という念いも強く感じられる。もしまだ側に居てくれたら、いつもと同じように夫婦喧嘩をしていたかもしれないが、それはそれで今よりも幸せだったかもしれない。これも独居老人に成り、初めて気付く、いたわりの心かもしれない。