疲れたなあ

風邪気味なので、今日は会社を休んでしまった。本当は休むほど悪い訳ではないが、新規インストールし、まさに心機一転、リセットというか、そう、バージョンアップのために休息を取った。そして漫然と机に座ってる。

最近思うのだが、人生はやり直しできるとか、失敗しても立ち直れるとかいうが、あれは若い人達を奮い立たせ、利用する為の言葉で、実際は全く違うと思う。

人生にやり直しは利かない。例えば犯罪行為などの罪を犯せば、長期間にわたって拘束され、その時間は二度と戻らない。仕事でも、自分に適さない職を無理に続けても、それは修行でも何でも無い。時間の経過ほど残酷なものは無い。過ぎた時間が如何に大事なものであったのか、それは残り時間が無くなってくるという、残酷に老いてから感じる。

30代になると20代ほどの身軽さは無くなる。40代になると、30代ほどの行動力が無くなる。50代になると、40代ほどの粘りが無くなる。60代になると、行動自体が面倒に感じてくる。知力に至っては年々衰えて、それを補うための狡猾さが鼻をついてくる。熟練という言葉は、狡猾と似てる。いつかは・・・などと考えてるだけでは、結局は同じような繰り返しの生活が続くだけだ。過ぎ去った時間は如何に大切であったのかは、老いてみないと理解は出来ない。

人生のやり直しは、気力と体力と財力があって、わずかに出来る程度でしかない。生涯を通じてチャンスは常にあるが、それに挑戦するにも気力と体力は絶対的に必要である。一度見逃したチャンスは、もう二度と戻る事は無い。チャンスも時間と同じように、ただ過ぎ去るだけで一瞬の差で乗り遅れれば、同じチャンスは再び訪れない。

「子は鎹(かすがい)」というが、妻子という家庭を持った者に冒険をさせまいとする戒めでもある。戒めかあ・・・要は失敗をさせまいとする、失敗をすると家族が苦しむという、それだけの事だ。失敗を恐れて清く貧しく生涯を通す、それも本人が選べば、それなりに良い生き方なのかもしれないが。老いて愚痴らなければ、それも良い。

仏教徒は輪廻を信じてるのか、都合良く解釈して現実逃避してるのか、次に生まれる時は・・・、などという言葉も聞くが、次に生まれた時には今の事など覚えてはいないだろう。西洋の教えでは、死ぬと天国か地獄に行くらしい。その行った先での生活保障に為に、何をするのか時の為政者が利用する事も出来る。

自分自身は幼い頃に古神道と真言仏教を教えられてきた。どちらかというと、祖父から学んだ古神道の方が強く身についているようだ。人は自然の中に生まれ、自然を糧として生き、死ぬと空気と水と土に戻り次の生き物のための糧となる。次の生まれ変わりなど無い。いま在る事に懸命に取り組み、周囲と次の者の糧になる努力をする。果たして、祖父に教えられて様な生き方をしてきたのだろうか。

幾つものチャンスを逃し、逃した事の反省を家族のためとか信義のためとか、それは今となっては実に惨めな、醜い言い訳でしかない。

妻の亡くなる4ヶ月前の写真が出てきた。娘と孫と一緒に公園を散歩し、この時、いったい何を思っていたのだろうか。半年間も大学病院に入院して治療し、余命宣告も受けていたが、本人はどの様に思っていたのだろうか。

パチンコ依存症の両親を守るために、自分の家族や家庭を犠牲にしてきた。子供の頃から両親に振り回され、逃れるためなのか結婚をし、結局は全て実家が原因で夫婦喧嘩も続いてきた。懸命に守ってきた両親は、病院にも家にも一度の見舞いに来ないまま、この後肺炎を併発し、会話も出来ないまま数ヶ月後に息を引き取った。行年59歳。最後の言葉は、何も無かった。何のために生きた59年間だったのだろうか。

無駄な生き方があるとすれば、妻の生き方は、これほど無駄な生き方は無いだろう。

死に臨んで人生のやり直しなど、如何に体力も気力も、有り余るほどの財力が有ったとしても、絶対に出来ない。老いて体力が無くなり、まだまだやりたい事ややり残した事が有る。この悔いの残る残り時間に思う事は、妻とのしがらみに悩まされて生きた時間と、失ったチャンスと、どちらが重いのだろうか、という事だけだ。