55歳の憂鬱 

55歳にして、憂鬱な日々が続く。人として、如何に行くべきか。人生の命題とも言うべき事は、若い時には余り思いも及ば無いものだ。残り時間が少なくなると、考えなくても良い事に時間を取られてしまう。人生を振り返る時、身近な親の生き方が思い浮かんでくる。反面教師に出来なかったということは、同じ様な最後になるのかと。

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湿地 父の家の長男は短命と聞いていた。代々50歳までは生きられないとかで、約850年間で三十数代、元禄の討ち入りの頃から幕末まで、わずかの期間で14代も替わったそうだ。曾祖父の寅三郎は、一人っ子なのに三郎と名付けられた。長男が短命なので、名前を三男のように準えたのだろう。終に50年間生きたと、村人と共に酒盛りをしたそうだが、その帰りに家のわずか10m手前で雪の中で寝てしまい、10日間を残して亡くなったと聞いた。もっとも、祖父は69歳まで生きたので、果たしてその話が本当なのかは疑わしい。父も71歳まで生きた。

 思えば、人の一生など短いものだと思う。懸命に生きても、何となく時代に流されても、所詮は同じ時間を過ごす事に変わりはない。その時間の積み重ねが、たぶん時代の流れになっていくのかもしれない。生き甲斐とは、生きた証とはどの様な事なのか、幾ら考えても分からない。


 我が家は早死にの家系だと、幼い頃から聞かされていたので、早い頃から何となく死に対しての意識を持っていた。死に対しての恐怖感は、子供の頃から感じることが少なかった。死に対しての恐怖よりも、父親の姿を通して、年齢を重ねることに対しての恐怖心が次第に強くなってきた。人生、わずか50年という。その間に如何に生きられるのか。特に父の55歳からの出来事から、55歳を強く意識してきた。

榛名山神社 人から聞く父の生涯は、物語としては面白い波瀾万丈だった。小学校就学前から、代々伝わる書風の書道を習い、戦前の全国書道展覧会では毎年金賞を取ったと自慢したこともあった。学校でのある騒動をきっかけに、書道家への道を目指して、小学校卒業と同時に東京深川の親戚を頼って家出をしたという。その親戚の家で世話になり、学校にも通ったそうだ。場所柄、小さい時から遊びも覚え、本当に有ったのか疑わしいが、浅草の「何とか組」の親分さんとも親しく成ったそうだ。この時代に書道だけではなく、戦前の極道の世界で義理人情と礼節も学んだ。

 戦争への動きが見えて来たときに、自ら志願して海軍に入隊した。当時田舎の祖父が、家に伝わった古い占法でみたところ、この戦争は回避できないし、負けると出たそうだ。その事を父に伝え、田舎に戻るように東京に説得に出掛けたらしいが、聞かずに入隊してしまった。尊敬する祖父についても少し述べるが、祖父は明治天皇に使えた近衛兵で、決して当時に言う、非国民というものではなかった。

 やがて戦争が起き、一時期海軍では山本五十六司令長官の側に仕え、その国を思う姿勢に大変な感銘を覚えたそうだ。戦後の父の生き方は、その時の山本司令長官の「若い君達は生き延びて、やがて来る戦後のために働き、日本のためにその命を尽くしてくれ」という言葉に最後まで影響をされていたように感じる。如何にも任侠の世界の様な事を言っていたが、父は常に自分の利益だけを考えずに、親戚や同業者との共存のためには利益などは無視していた。その結果が、これは私の責任も有るのかもしれないが、最終的に借財だけが残った。決して人は、昔の恩義などに報いようとはしないものだ。

 どの様な経緯なのか解らないが、そのご下田の海軍病院に勤務した。ある病室に、森下という某企業の縁者と、横山という有名な画家の長男が一緒になっていたという。森下氏は大変な学識と博学であったそうだ。横山氏は障子紙に山水画を描き、森下氏は漢詩を作ったそうだ。文字を書くと障子紙では滲み、小さな紙では上手く書けなかったらしい。父は書道を習っていたので二人に加わり、森下氏の漢詩を一気に書いては楽しんでいたという。それを見た陸軍医学校の教官により、海軍でありながら陸軍医学校に勤務することになった。各種の実験データを毛筆で清書して纏める為に、書道の出来る者が欲しかったらしい。

 終戦の年の初頭、戦局は極めて悪い状況である事を知り、解剖や実験ばかりの生活に疑問を抱き、南方戦線に志願した。その戦場環境は、想像も出来ない状況だったそうだ。戦うにも武器が無く、生き延びるにも食料も無い。治療をするにも薬も無く、身体が膿み腐りかけた治療に、起爆剤を使った事もしばしば有ったそうだ。死の恐怖と生存の限界を超えた生活が、期限の分からないまま続く恐ろしさに、自ら敵陣に叫びながら走る者や、脱走する者も多かったそうだ。そして終戦を迎えて、オーストラリア軍に降伏した。

滝 終戦後は田舎に戻り、家を助けるために鉄工所に勤めた。そこで母と知り合い、結婚の後は母は農業を手伝い、父は外に働きに出た。父は10人兄弟の長男として、家を守るために懸命に働いた。戦後、多くの農地を失って、農業だけでは生活が出来なくなっていた。私が生まれて3歳の頃には外に出たらしいが、その理由として、母が町で育ったので農業が出来ないという事にしたらしい。後年、母は長い間田舎の人からその事を言われ続け、何とも言えない悔しさがあったと言う。大家族で、まだ小さい妹や弟がいるので、生活費は長男が稼ぐ必要があり、家は三男に任せて、陰で祖父を支えていたらしい。自営も、大きくは伸びられなかったが、鍛造という珍しい業種であったので、仕事はかなり自由に楽しんでいた。

 戦後になって、医師免許の書き換えがあり、何度もその連絡が昔の上官から有ったそうだ。なぜかその連絡は無視して、一切医学関係の話しもせず、同年兵の集まりにも出なかった。果たして父は医学を学んだのか、今となっては聞くことも出来ない。妹には只の衛生兵だったと言っていたらしい。大叔父は、せっかく医者になったのに免許を無くすとは惜しいことをしたと、亡くなった後に話していた。しかし何かの経歴には小俣の小学校が最終学歴になっていた。東京に行ってから、全く学校には行かなかったのか、父の話は極道の世界の、周辺地域の人達との楽しかった事ばかりだった。東京での生活は楽しい想い出だったのだろうが、やはり戦争というのは思い出したくないものらしい。

 親のため兄弟のため家のために仕事は頑張ったが、肝心の自分の事業を伸ばすことは後回しにしてきた。常に借り入れ対策優先の事業計画で、自営業としては最も問題の多い公私混同型だった。そして昭和47年、54歳の時に母が癌の病に倒れ、55歳の時に47歳で亡くなった。その直ぐ後に家は火災に遭い、新築後はオイルショックの影響で3年間全く仕事がなかった。母の看病と仕事の忙しさで、母の生保も家や工場の火災保険も書き換えや支払いを忘れていた。その結果、大変な借り入れを行ったのだが、直ぐ後に不況が来るとは思ってもいなかった。その中で私は自分の夢を諦めて結婚したのだが、当時の不況の影響から未だに抜けきれないでいる。父達は自分の家のためよりも、他人を最優先してきたが、残るのは何もなかった。何も無くなると、人がどの様に変わるのか、この時に痛いほど解った。


地蔵堂  55歳からの父は、どんなに頑張っても全て上手く行かず、ただただ借り入れが増えるばかりだった。60を過ぎてから何事に対しても意欲を失い、全てを私に任せるようになった。公正証書の遺言を書き、全ての財産を、と言っても不動産の数倍の借入金の責任を全て私に渡した。その後の借り入れに対しては全く関知せず、現役から離れた。そして少しずつ痴呆症の症状が出てきた。所詮、力の無くなった者は、誰からも相手にされなくなる。人の為にと陰で援助をしてきたのに、昔から生意気だったとバカにされるだけだった。自尊心の強い父にとって、56歳からの生き方は不本意であったと思う。私は次第に父の時代の付き合いから離れ、自分自身の付き合いも避けるようになってきた。

 いま自分自身が55歳になり今後を思うとき、体力は衰えるばかりで、一体何が出来るのか迷うばかりだ。夢を捨て、父を支えてきたつもりだったが、その父が亡くなると支えが消えて、目的感が無くなったようになった。一体何歳まで生き続けるのか。どの様な人生が残っているのか。55歳以降に対しての不安感は大きい。体力の衰えがハッキリと自覚でき、記憶力の衰えも分かる。何をするにも面倒になってくる。新しい事に対する挑戦も、残り時間を計算して、安全策を考えてしまう。過去の経験を活かす、過去の延長で考える様になり、自分の殻が破れない。そして、55歳ももうすぐ終わり、あと何日かでで56歳になる。父と同じ人生なら、これからが最も大変な時期になる。